日頃「荒らしはスルー」と言ってる人たちが(メカAG)
今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
日頃「荒らしはスルー」と言ってる人たちが(メカAG)
美味しんぼ騒動で福島市の観光客がキャンセルになったらしい。1件は個人客だが、もう一件は団体客のようだ。後者は商売としては痛いね…。
それはさておき、今回騒ぎを大きくしたのは、美味しんぼを叩いてる側だと思うんだよね。美味しんぼの作者さえ驚いているように、反応が予想外。「風評被害を出すな!」と叫んだ人たちが風評被害を出してしまった。
あ、なにも叩いている側が悪いという話ではないので、誤解のないように。別にどっちも悪くないと思うね、俺は。すべて地震が原因で、それを「人間がせめて○○すれば少しは被害が減らせた」というのは、静かに冷静に将来の教訓とするならいいが、なんか誰が悪い、彼が悪いと八つ当たりするのでは、百害あって一利なし。
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さてネットでよく言われるのが「荒らしはスルー」「馬鹿は相手にしない」。でも大抵の場合、こう言ってる本人がスルーできていないし、馬鹿を無視できていない。本当にそれができてる人は、そもそもそんなことすら口にしない(苦笑)。
んで、そうできない理由。まず根本的に「政府は国民の声を尊重すべきだ」というのが問題。いきなりなにを言い出すんだというかもしれないけれど、実は根源的にはここに問題がある。
素人である国民の声に必要以上に翻弄されるべきではない。あくまで専門家の意見に従って政治を行うべきで、国民の声は参考程度に留めるべき。
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ところがそうは考えない「国民」が多い。まあ、自分たちの主張を軽視しろというのは、確かに難しいだろうね。つまりその時点で政治に口を出す権利がないといっても過言ではない。
どのように政治を行うのが正しいかを客観的に考え、その結果自分たち(国民)の声に翻弄されるべきではないという結論に到達したら、そう割り切ることも必要。それが冷静で客観的で合理的で論理的な判断というものだ。
でもそこまで割り切れる心に国の事を考えている国民は少ないし、マスコミも国民の人気取りのために、「政治は国民の声を尊重せよ」という。困ったものだ。特に原発問題のような専門性の高い領域を、国民が正しく判断できるわけないのに。
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「政府は国民の声を聞くべきでない」と割り切れれば、それで問題終わる。でもそう割り切れないばかりに次の問題が生じてしまう。国民の間に「正しい世論を形成しなければ」という義務感・危機感。
むろんこれも適度であればすばらしいことだ。民主主義はこれを前提としているのだから。世の中には理屈で結論を導き出せないことがたくさんある。戦争をすべきか否かなんて、いくら論理を積み上げても答えは出ないだろう。
専門的な判断や論理的な判断では答えが出ない部分は、世論で判断するしかない。ただこの比率が難しいということ。
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そしてもう一つ。国民は馬鹿が多いという、悪い意味での自覚。その自覚自体は正しいのだが、自分もその国民の一人であることをしばしば忘れてしまう。物事は複雑であり、簡単な知識や判断力では正しい結論に到達できないことは無数にある。
自分の判断力の手に余ると思えば沈黙すればいいと思うのだが、なぜかこういう時に限って、何らかの意見を持つべきという民主主義の精神に目覚めてしまい、適当に判断を下す人が多い。その結果「わかりやすい」説明をした人間に支持が集まってしまう。正しいことというのはたいてい複雑で難解なものなのだが…。
で、そういう過程で世論が形成され、しかも肝心の政府が、専門家の判断力ではなく世論に迎合するとなると、もはや沈黙しているわけにはいかなくなる。互いに存亡をかけた総力戦になってしまう。
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国民は政治に積極的に参加し、自分の意見を持ち、それを表明すべきだという。これが俺は間違いだと思うんだけどね…。基本的に政治は専門家の判断に任せ、世論は参考程度にとどめておくべき。政府は世論の多数派に安易に迎合すべきではない。参考程度なら、多数派の意見も少数派の意見も参考にすればいいのだから、国民が血道を上げる多数派争いをせずともすむわけだ。
国民が声を上げるべき時というのは、たとえるなら武力革命を起こさなければならないほど、切実な状態に直面した時だけでいい。その時に占拠で政権を覆せば、武力革命による混乱を最小限にすることができる。
最近の風潮っておかしいと思うんだよね。やたら国民の間で、必要もないような問題を掘り起こし、合意形成をして結論を出そうとする。つまり日本の社会がすべて一つの方向に向いているべきという考えだ。
一つに統一してしまったら、その判断が間違っていた時どうするのだろう。むしろ複数の価値観が混在していれば、一部のひとたちは成功するわけだ。なんでやたら一つにまとまりたがるのかね。
まあ、ようするに他人との意見衝突が面倒なので、公式見解を政府に決めてもらいたいということなのだろうけど、そこを楽をしたら取り返しの付かないことになる。多様性は絶滅しないために必要。
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風評被害だって必要悪だと思うよ。もし「福島が安全」という判断が間違っていたとする。その「正しい」とされた判断に従ってたら、福島の人は全員健康被害を受けてしまうだろう。この時、風評被害があり、それに耐え切れず福島を出る人々がいれば、その人たちは結果的に助かるわけだ。人間万事塞翁が馬。あの時風評被害で福島を出るしかなかったが、結果的にそれが幸いした、ということもあるだろう。
福島に残る選択、残らない選択、両方あることが望ましい。残酷だけど全員が同じ運命になるよりも、半々の方がいいこともある。よくいうよね、スポーツチームとかは2機の飛行機に分かれて移動する、と。もし1機に全員が乗っていて、その飛行機が墜落してしまったらそのチームは再起不能だ。全員死ぬよりは半分生き残った方がいい。
リスクコントロールというのは本質的に残酷なものだ。その残酷さに耐えることがリスクコントロールなのだ。すべて人々が幸せになる方法を選択すると、当てが外れるとすべての人が不幸になる。せめて不幸になるのは半分の方がいい。
国民はそういうシビアな判断はできないよね。みんな仲良く、幸福も一緒、不幸になるのも一緒がいい。だから政治に参加しちゃいけない。そういう汚れ役は政治家に任せ、国民は政治家を「なんて非情なんだ、人非人」と悪態ついていればいい。汚れ役に意義を感じる人間は正直になればいい。
執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年05月21日時点のものです。
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