電王戦第5局観戦記 大崎善生(作家)

 4月13日午前2時30分。

 私は地元西荻窪の居酒屋のカウンター席に編集者T君と並んで座り、マグロ刺身や山芋の千切りなんかをつまみながら焼酎を飲んでいた。

 何だか疲れていた。

 疲れ果てていた。

 先日の朝9時から今までに起こったことをゆっくりと何度も反芻し、そして何かが蘇るたびに頭の中はくるくると何かが回転するような感覚に囚われた。頭に蘇った何かを私はときどきT君に向かって口にした。その言葉に彼は大きくうなづいたり時には反論したり、ここだけの話ですけどねえなどと紋切り型に切り出して私の感心を誘おうとするのであった。

 ああ、そいうえば、と私は思った。

 昨年の今頃もこの店でこうして二人でカウンターに並んで焼酎を飲んでいたなあ。昨年は私は電王戦第3局の観戦記担当で、船江五段がツツカナに敗れた。その対局後T君と二人で千駄ヶ谷から最終電車に乗り西荻のこの店にたどり着いたのだ。

 そして二人で人間がコンピュータに敗れたことについて真剣に話し合った。私は進化のスピードからしてもうプロが勝つのは難しいのではないかと力説したのだが、T君はプロ棋士の肩を持ち顔を真っ赤にして反論するのだった。

 そして今年。

 私は第5局の観戦記を担当し、またしてもプロ棋士は敗れたのである。コンピュータはポナンザ、人間は屋敷伸之九段。ポナンザは強化される一方のコンピュータの中でも頭ひとつ抜け出した存在といわれている。一方の屋敷はわずか18歳でタイトルを奪取するといういまだに誰にも破られていない記録を持つバリバリのトップ棋士である。第3回電王戦の第5局、大将戦という位置づけであった。

 これまでに人間が3敗しすでに団体戦としての決着はコンピュータの勝ちということで勝負は着いている。しかし第5局を勝つか負けるかでは結果の印象は大きく違ってくる。4勝をすれば七番勝負のタイトル戦を奪取できるし、野球でいえば日本シリーズもワールドシリーズも優勝できる。

 午前10時の対局開始時刻、将棋会館にはすでに数十名の報道関係者が詰め掛けている。特別対局室に造られた対局場では今回導入されて大人気者となった電王手くんがすでに盤の前に座り、その後ろでは羽織袴を纏ったプログラマーの山本一成さんが磐石の構えでモニターを眺めている。

 しばらくして屋敷が入室した。

 紺の上下のスーツに黒い皮の鞄をぶら下げ、サラリーマンのようないでたちだ。おそらく普段の対局通りのスタイルなのだろう。席に着いた屋敷は一礼して鞄の中から扇子や飴やハンカチといった商売道具を次々と取り出して畳の上に並べた。

 それを眺めていた電王手くんもきちんと一礼すると見事な手際で駒を並べ始めたのである。

 将棋は先手屋敷の作戦により、横歩取りへと誘導された。今回の電王戦の唯一の勝者となった豊島七段も採用した戦法で、人間側にアドバンテージがあるのではないかと思われる数少ない作戦である。形のはっきりとしない急戦で、感覚的な指し手を多く要求されるところがおそらくコンピュータにとって苦手なのだろう。

 横歩を取り中住まいに構えた屋敷に対してポナンザが取ったのは6二玉(第1図)。屋敷の3六歩に対して7二玉とそそくさと玉を移動していく。実はこれはコンピュータが得意とする戦い方だそうで、玉を戦場から離すことによって感覚的な戦いから逃れようとしているのではないかと思われる。第一図の形はもしかしたらこれから人間の戦いにもしばしば現れるようになるかもしれない。定跡という人間の先入観の裏を取る、ひとつの典型的な姿として印象的な場面であった。

 午前中は対局室で将棋を眺めていた。

 屋敷は扇子をパタパタと仰いでいる。頭上からの照明の光が予想以上に強く、とにかく熱い。電王手くんにも扇子パタパタ機能をつけてあげたらどうかと、ぼうっとする頭でそんなことを妄想している。プログラマーの山本さんは何だか眠たそうで、モニターではそのことが話題になっている。

 昼休み。

 屋敷は細島屋の出前のカレーを食べた。

 ポナンザや電王手くんが何を食べたのかは知らない。

 午後に入り将棋は動き出した。飛車と金、桂、香の3枚換えとなり、ポナンザが駒得となっているが、しかし屋敷の飛車2枚という持ち駒も強力で、非常に形勢判断の難しい局面が続く。ポナンザの側から飛車を切ったり、1六香(第2図)などの強手や不思議な手が続く。人間側からは第一感的に不可解な手なのだが、しかし実際指されてみて対応を考えてみると、普通に好手だったことがわかり、そのたびに屋敷は読みを改めて対処していかなくてはいけないという神経をすり減らす展開となっている。

 本局も不思議なことなのだが、検討陣は人間側を持つ棋士が多いのだが、コンピュータたちはどれもがはっきりとポナンザ優勢の評価を下している。大局観という棋士の持つ能力がまたしても先入観となって邪魔をしているのだろうか。

 将棋は形勢不明のまま終盤へと突入していく。ポナンザの攻めに乗るように玉を左翼へと逃げていった屋敷の判断がよく、形勢は先手が一手余しているのではないかという声が多くなった。屋敷もそう思っていたそうだ。

 そこに飛んできたのがポナンザの7九銀(第3図)である。解説の棋士はコンピュータが暴発したかと言った。継ぎ盤を囲む棋士たちも多くが首を捻った。屋敷も一目悪手と判断した。確かに見るからに筋の悪い手である。7九銀を見ながら屋敷は何度も「うん、うん」という風に頷いている。その表情は自信に満ち溢れて見える。

 しかし、と観戦しながら私は思った。

 考えてみればこのくらいの終盤に差し迫った局面でコンピュータが悪手を指したという場面を殆ど見たことがない。何か罠があるはずだと考えるべきではないのだろうか。

 そんな私の予感がわずか7手進んだところで的中してしまっていた。第3図から9七玉、9六歩、同玉、9五歩、同玉、9四歩、9六玉、6八成香と進んだ局面で屋敷の手が止まってしまった。玉の頭を歩で抑えられ、最後に成香を使って金駒を請求される手が非常に厳しいのである。

 解説会場から戻ってきた渡辺明二冠を中心とする検討陣も手がここで止まってしまった。どうしても先手がよくなる手段を見つけられないのだ。
皆があきらめかけたとき、打開策を発見したのはツツカナだった。この局面で8六香、7三玉、7九金、同成香、8四銀、6四玉(第4図)とすればということである。早速それに従って検討が再開され、誰もがコンピュータの読みの正確さに驚いていた。

 そして最後の力を振り絞り、屋敷はその通りに指した。

 「これは稀に見る大熱戦だなあ」と棋士が皆、声を上げる。双方入玉という線まで出てきて、検討もにわかに熱がこもりはじめた。

 しかし第4図で屋敷が指した81成香が好局を不意にする悪手。すかさず83歩と突かれて一遍に王様は進退を窮してしまった。またしてもコンピュータの正確無比な終盤の前に人間がミスをするという展開が繰り返されてしまったのである。

 将棋はやがて屋敷にとって絶望的とも思える局面へと進んでいく。最終盤では何度も席を立ち、おそらく洗面所で気息を整え、時間を使い果たしや屋敷が秒読みの末、投了を告げた。
「負けました」と言ったのだろう。

 すると電王手君が深々と頭を下げ、それから記録係と観戦者である私たちに向かって頭を下げたものだから私も思わず深々と礼をしてしまったのである。

 「結果は残念だけれども、熱戦になってよかったと思う。今日の将棋には満足している」というのが屋敷の言葉であった。
 
 午前2時半を回り酔いがまわってきた私の脳裏に様々な言葉が蘇ってくる。電王戦の最終局ということもあり、参加棋士と参加プログラマー全員が集まり記者会見が行われた。あるプログラマーは1勝4敗という結果はすなわち勝率2割ということなので、これはもはや駒落ちの手合いではないかということを言い出した。その言葉をプロ棋士はどんな思いで聞いていたのだろう。しかし去年の1勝3敗1分けと今年の1勝4敗という結果を見ると返す言葉も見当たらない。

 森下九段は「将棋というのは難しいもので、一手指せば負けてしまう。一手15分というルールでやらせてもらえれば絶対に負けない」と言い張ったが、私の胸には空しく響くばかりであった。
「アイデンテファイを問われているんだ」と私は酔ってT君に言った。

 「アルデンテハイって、それなんですか」と同じく酔いが回ってきたT君は童顔を真っ赤にして私に聞いてきた。アルデンテハイって、パスタの茹で加減じゃないんだから、といいかけたが私はじっと言葉を飲み込んだ。そういうことをT君に言うとますます話が面倒くさくなるからだ。

 「存在理由だよ」

 「存在理由」

 「そう。大げさに言えば棋士たちは、今、それを試されているといってもいいはずなのに、、」

 なぜか棋士たちの言葉は私にはどれもがのんびりとしたものに聞こえてならなかったのである。
「中よりは上じゃないか」とコンピュータの実力をどう思うかとの問いに谷川会長は搾り出すように答えたが、しかし去年、今年とA級棋士が連敗した現実を見ると、どうしても認識が甘いように聞こえてしまう。知り合いの棋士はタイトルホルダークラスと言っていたし、もう一人はA級は間違いないのではと言っていた。その辺りの認識をプロ棋士間でも洗いなおす必要があるのではないだろうか。

 疲れ果てた頭に様々な声が響き渡る。この疲れがただの体力的なものではなくて、やはり自分が信じてきた圧倒的な存在のプロ棋士が、完膚なきまでに打ちのめされたことからくるものであることはわかっていた。

 習甦の竹内プログラマーは「コンピュータは人間を打ちのめすためのものではない。手助けをするためのものだ」と言った。ポナンザの山本プログラマーは「人間にできることはコンピュータにできると思っている」と発言した。

 どちらの言葉が正しいのかもわからない。ただしおそらくどちらもまったくその通りなのかもしれない。

 1勝4敗という結果はあまりにも重い。その結果をどのように飲み込めばいいのだろうか。

 日本将棋連盟も最強の切り札を切って、プログラマーたちの言葉を打ち消すときが来ているのではないだろうか。もちろん記者会見ではその質問も飛んでいた。コンピュータには追いつけない人間の最高の知能を見せて欲しい―。いや見てみたい。人間の持つ勝負勘、構想力、全知全能を最大限に駆使した戦いをだ。

 午前3時、まだ外は暗い。

 酔いつぶれる前に私はT君と別れた。

◇関連サイト
・[ニコニコ生放送]第3回 将棋電王戦 第5局 屋敷伸之九段 vs ponanza – 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv161977239?po=newsgetnews&ref=news
・[ニコニコ静画]第5局 屋敷伸之 九段 vs ponanza – 会員登録が必要
http://seiga.nicovideo.jp/watch/mg87265

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