おもてなしの心をあらわす“日本の美”
生け花、日本庭園、和食、茶の湯……日本の古き良き文化はいずれも美しいものですよね。
こうした美の根底にあるのが、「禅」の思想。禅では、ムダをそぎ落としたもの、移ろいゆくもの、未完成のもの、慎ましやかなものを美しいとしています。
そんな「禅」の美についてあますところなく語るのが『日本人はなぜ美しいのか』(桝野俊明/著、幻冬舎/刊)。著者は禅寺の住職であり、庭園デザイナーです。
ここでは本書から抜粋して、「禅」の美について、西洋との対比を通して紹介したいと思います。
■生け花とフラワーアレンジメント、なぜここまで違うのか
洋の東西を問わず、広く愛されている花。花には場に華やかさを与え、おもてなしの心を表現する力がありますが、花の美しさに関する感覚は東西ではっきり違いがあります。
まずはフラワーアレンジメント。ボリューム感と色彩に重きが置かれ、見る者を圧倒させるほど何種類もの花があしらわれます。
西洋の人にとって、花は「素材」。花をふんだんに使うことでおもてなしの心を表現しているといえそうです。
一方で、質素で、一輪挿しも珍しくないのが生け花。花の数は限定的で、季節の花をさりげなく生けます。
生け花では、例えば夏真っ盛りの日に客を迎えるといった場合、「涼やかさ」を感じさせるために、青い朝顔を一輪挿しにしたり、むくげの一枝を飾って霧を吹いたり……といった生け方をします。
日本の生け花において、花は「心」(おもてなしの心)をあらわします。日本人にとって、花は「命」あるものであり、この命におもてなしの心を載せることに心を砕くのです。
■自我をあらわす西洋の庭、無我をあらわす禅の庭
西洋の庭と、禅の庭もまた、大きく異なっています。圧倒的な量感とあざやかな色彩で見る人を感嘆させるのが西洋の庭なら、静かな佇まいで見る人を包み込み、心を清々しく、また穏やかにするのが禅の庭です。
著者は禅の庭を造る現場では「手ぶら」なのだそうです。それは、図面通りにことを運ぶのではなく、周囲の景観や風の通り道、光の当たり具合などをその場で感じ取り、微調整をするためなのだといいます。
大地、植栽、水、白砂などを道具として扱うのではなく、ひとつひとつと向き合いながら、それらと意識を一体化させる……そういった過程を経て、禅の庭は造られていくのです。
西洋の庭にあらわされているのが自我だとしたら、禅の庭にあらわされているのは無我だと言えるかもしれません。
日本文化に独特の「そぎ落とされた美」。
当たり前のように日本で暮らしていると気づかないけれど、実はそんな日本の和の「美しさ」は、世界でも非常にまれな存在であると著者は指摘しています。
古き良き日本の文化を改めて味わい、肌で感じてみてください。
(新刊JP編集部)
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