「好き」とは何か(メカAG)
今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
「好き」とは何か(メカAG)
某プロブロガーが「好きなことを仕事にすべき」と力説している。まあ別に反対する理由はないけど。ところで「好き」とはなんだろう。一種の過剰進化だと思うんだよね。生物には妙な特徴が多い。クジャクの派手な羽とか、生きるためにそこまで必要なのか?と思うものが少なくない。
確かにある段階までは生きるのに有利だったのだろう。なのでその方向にどんどん発達していった。でもちょっと行き過ぎてしまったのだと思う。でも特にそれで支障ないのでそのままになっている。逆に行き過ぎたことで致命的になったのが恐竜の巨大化。
人間の場合過剰進化は大脳だった。生物として生き残るのにここまで高機能な大脳はおそらく必要ない。ただ進化の初期には大脳が大きい程有利だったのだろう。そして特にそれを妨げる要因がなかったので、限界まで大きくなった。
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必要以上に高機能になってしまったので、生きる(食物を摂取し思想ん増やす)ためだけに使うのは持て余してしまった。もともと脳は考える機関だ。胃袋が食物を欲しがるように、脳は考えることを欲するように作られている。考えることがなくなると飢えてしまうのだ。そこで必要ないことまで考え始めた。それが文化。
生物の進化の必然として人間のような高等生物を位置づけるのは、果たして正しいのだろうか。たとえばクジャクは進化の必然なのだろうか。それともたまたま登場しただけなのか。同じように人間のような過剰な大脳を持った生物の登場は必然なのか偶然なのか…。
人間は高度な思考力のお陰でここまで繁殖した。結果的にこの進化は有利に働いた。しかしもう一度進化をゼロからやり直した時、クジャクや人間は生まれるだろうか。
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人間は思考することを欲する。思考しないと飢えてしまう。思考欲。生物は食欲や性欲を持っている。これは生物として必須だ。この2つを持たない生物は繁殖できない。しかし思考欲は生物に必須な2つの欲求と、直接結びついてないんだよね…。過剰というか余剰の能力。
人間は無駄な欲求に振り回されているとも言える。しかし結果的にそれが人間を生物として繁殖させている。この偶然の産物は、奇跡としかいいようがない。「人間」が登場したことで、進化における支配的要素が変わったとさえ思う。パラダイムシフト。生物の生存競争を支配する基本的な因子(本能)に、あらたな公理(思考欲)を付け加えた、別の体系を作ったような。
執筆:この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年04月25日時点のものです。
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