かぐや姫の物語
Facebookで皆が「かぐや姫の物語」を仏教だ仏教だというのでずっと気になっていましたが先日ようやく観ることが出来ました。
僕の幼少時代・少年時代はいかにしてお寺から逃げ出すか?が最重要トピックだったので原作のかぐや姫も読んだっけな?という怪しい記憶でしたが、いざ映画が始まるといきなり目から汗が・・・なんとも懐かしい世界が広がっておりました。
皆が言う仏教だ!のラストシーン、かぐや姫が月に帰るシーン。月からの使者がお迎えにやってくるという記憶でしたが、なんとまぁ阿弥陀如来が菩薩達(極楽浄土で修行する人々)を引き連れてお迎えにやってきました。
仏教はさまざまな修行方法で悟りを開く、仏になる方法を説きます。その一つに阿弥陀如来が極楽浄土に救い取ってくれ、そして苦しみのない場所、修行に専念できる極楽浄土で仏になる、という浄土教の教えがあります。救急車のサイレンが聞こえてくると「あ〜お迎えがやってきた」なんてボケをかましたりしますが、本来、お迎えといえば阿弥陀如来なんですね。
そのお迎えがラストシーンに登場したのですから、それはもう仏教的でしょう。
阿弥陀如来が迎えにきたんだから、かぐや姫が念仏称えていたシーンはカットされていただけだろうなぁとか、月じゃなくて極楽へ行っちゃうなぁとか、極楽は帰る場所じゃなくて往く場所だよなぁとか、そんな野暮な話は今日はおいておきましょうね。
しかし、この映画、ラストシーンにいくまでもなく、かなり仏教の要素が散りばめられていました。
竹から生まれた(正確にはたけのこの中から出てきました)かぐや姫はどんどん大きくなり、捨丸という青年と出会います。そしてかぐや姫は「私はずっと捨丸の手下だよ!」と、いつまでもここにいたい気持ちを吐露します。はい、ここは諸行無常だからね〜続かんよ〜と。
なんどとなく、登場人物たちが口ずさむ「とり・むし・け〜もの・くさ・き・はな〜」という歌があります。最低限の描写で描かれている自然や春夏秋冬の世界と相まって、全てのものに仏になる種が宿っている悉有仏性(しつうぶっしょう)という言葉が浮かびます。
あまりにも美しい姫を振り向かせようと、たくさんの男たちが手を替え品を替え、そして嘘をつき近づきますが結局だれも手に入れることはできません。仏教が説く苦しみの世界ですね。
立派な品物ではなく一輪の花(野辺に咲く蓮華)を差し出すイケメンも、姫にかかれば「あなたに詰まれ捨てられて悲しみのあまり仏門に入る姫」と修行の差を感じさせてくれます。
嫁がせるラスボスとして帝がでてきます。かぐや姫の父は帝に嫁がせることで姫を幸せにできると思っていますが、姫にかかれば「(娘を嫁がせることで)りっぱな位をもらうことが父の幸せですか?」と、もう僕はこの段階でかぐや姫がお釈迦さまにしか見えませんでした。
ラストシーンにいくまでもなく、「かぐや姫の物語」は仏教でした。みなさんも是非ご覧ください。最後、二階堂和美さんの歌声と歌詞に注目ですよ!
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