努力は報われないほうがいい

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「とりあえず頑張ってみます!」と言ってしまう自分には、ちょっと痛い内容です。今回はmedtoolsさんのブログ『レジデント初期研修用資料』からご寄稿いただきました。

努力は報われないほうがいい
現在進行形ですごい状態にある人を見て、「僕も頑張ってああなるんだ」なんて、 その人と同じやりかたで、同じ場所を目指して頑張るのは、危険なことだと思う。何かの間違いがあって、頑張ったその人の成功を許してしまった業界は、その時点で詰んでしまうから。

承認のコストがつり上がる
同じ方法論で頑張った人は、どうあがいたってオリジナルのコピーにしかなれないものだから、 そういう人は、ものすごく頑張る。頑張った人が、『頑張り』に見合った承認を求めると、 世代を重ねるごとに、『頑張り』のコストはどんどん上がる。

業界のどこかで『すごい』を観測したのなら、その人と同じやりかたを重ねるのではなく、 「もっと簡単にあそこに到達するにはどうすればいいんだろう」なんて考えないといけないし、 それでも『頑張り』以外の答えが出ないなら、『すごい』その人たちがいなくても何とかなるように、 仕事のやりかた自体の書き換えを目指すべきなんだと思う。

「僕も頑張るぞ」というのは、危険な選択だと思う。一度『頑張り』の魔界に足を入れると、もう後戻りができない。 頑張ったあげくにどこかに到達したとして、頑張りの元を取れなかったら失敗判定される。 『頑張り』というのは本来、ものすごく分の悪い賭(か)けであって、「頑張るぞ」という選択は、 だから地雷原にあえて足を踏み入れるようなものなんだ、と理解しないといけない。

個人の体験が一般化する
頑張った結果として成功した人が、次世代に頑張りを『正解』として伝えると、業界が終わる。教育をする人たちは、研修医には、「頑張る前に、それが本当に必要なのかどうか考えなさい」なんて 教えてほしいなと思う。

「とりあえず頑張る」というのは本来、保身の手段であって、成功の手段とは違う。だれかの天才的なひらめきを見たら、それを天才と評するのは思考停止であって、凡人を自覚している競合者は、同じような発想に、力ずくでたどり着くやりかたを考える。 天才抜きでも同じ結果を出せるような、そんなやり方が示されて、 初めてそこで、『頑張る』意味が見えてくる。

「漠然と頑張る」ことで成功した人というのは、たしかにいる。でもそれは、 やっかみ10割で言ってみれば、だれか高齢の、偉い人たちの視界に入り続けることで、 組織にとってかわいい人間となり、上に引き上げてもらうための、一種の処世術であったはずなのに、 頑張った人たちが、「僕たちは頑張ったから報われたんだ」なんて賢しげにつぶやくのは、 それはもう、後続を殺すための欺瞞(ぎまん)情報なんだと思う。

「俺(おれ)は偉くなるために年寄りの尻を舐(な)めたんだ」って威張るのは、むしろ大いにありだと思うし、 そういうことを包み隠さず話してくれる人の言葉はとても大切なんだけれど、 「じじいの肛門を吸引すると元気が出るぞ」って後輩に教えたところで、 それを実践した下級生は、たぶんみんな病気になって倒れてしまう。

伝統芸能が証明されると業界がダメになる
自分たちの暮らす医療という業界が、「やっぱりあったけぇのが一番だよ」みたいな、 年寄りの価値観的なものに収斂(しゅうれん)していって、統計屋さんがそれを覆すどころか、 「暖かいやりかた」を強化する方向にすり寄ってるのに、すごく嫌な予感がする。 それをやられると、臨床が続けられない。

「名医ならば一目で分かる」的な、昔ながらのやりかたというのは、 それが再現できたらたしかにすばらしいんだけれど、それが統計的に『正しい』やりかただと証明されて、 それを常に再現するように求められたら、困ったことになる。自分は名医にはなれないから。「名医なら余裕で分かる」が真になってしまうと、逆説的に、 「診察して分からなかったら名医でない」なんて、あるいは「診察直前までは名医でいられる」なんて価値を生む。 これは結果として、診察しない名医と逃げる名医を増やしてしまう。

古い価値軸が統計で固められてしまうと、成功事例が収斂(しゅうれん)する。「最初に診察したバカ医者を、あとから来た名医が口でたしなめる」というやりかたが 成功すると、リスク抜きに成功をつかむやりかたが決定して、 みんながそれを再現する。名医であり続けたい人は、そんな場所に自らを置こうと 立ち回って、実際問題、分からない患者さんを抱えると、 相談しても「分かってから相談して下さい」なんて、 専門的意見をもらうことが増えている。

昔のカブトムシは空を飛べた
統計野郎が業界のベテランにすり寄るちょっと前、自分が3年目ぐらいだったころ、 救急外来は大賑わいで、病院どうし、患者さんの奪いあいだった。 どこの病院も救急を受けて、救急外来はお互いに覇を競って、毎晩がお祭り騒ぎで、そこには医師があふれてた。

名医のやりかたが統計で固められて、とりあえず何とかする乱暴なやりかたは、 いつの間にか統計的に間違いであるなんて証明された。

「カブトムシは航空力学的に飛べないことが証明された」なんて、虫が飛んでるのを見れば、 嘘(うそ)だってすぐ分かるのに、うちの業界だと、何とかしている奴らが間違ってることになった。「飛んだら間違いだ」なんて言われたら、虫もたぶん地面を歩く。 何したって間違ってるとか言われたら、もう仕事ができない。 今から8年ぐらい前から、だから救急外来には、診たら負けなんて信じられない言葉が飛び交って、 救急車は行き場を失って、救急外来に立つ人は、一気に減った。

第一世代の達人は、本当に達人だったんだけれど、その超人的な正しさを、統計的に裏付けることを許してしまったことは、致命的な失敗だったんだと思う。 達人は再現不可能で、達人抜きでも同じ結論にたどり着くやりかたを編み出して、それを検証することこそが、統計屋さんの仕事だったはずなのに。

医療は実質吹き飛んでる。原因はいろいろだけれど、つまるところは、これは当時の達人が、 尻を舐(な)めにすり寄ってきた統計野郎を皆殺しにしてたら、世の中こうはならなかったんだと思う。 エクセル以外に友達のいない、さみしい大学時代を送った根暗な奴らが、世の中に復讐(ふくしゅう)しようと 「頑張った」結果として、復讐(ふくしゅう)は達成されて、業界は焦土になった。

じゃあどうすればいいのか
自分は「頑張るという文化」それ自体が間違いだ、と思っていたんだけれど、 「自分の生きていく世界で頑張ること自体は幸せなことだと思うし、頑張る方法が間違うのはしょーがなくて、そこで競争すればよくって、頑張るなというのは違う 」 という指摘をいただいて、反論できなかった。

で、じゃあ今度は、顧客を志向した、公正なルールなら、統計野郎を打ちのめせるのかといえば、 やっぱりあんまりそんな気がしなくて、 今度は「払った犠牲と得られた結果が比例するとき、人は嫉妬(しっと)しないんですよね。要領よくやって、少ない努力で大きな成果を得る人に対して、人は嫉妬(しっと)する」なんて指摘をいただいて、 たしかに系の嫉妬(しっと)を最小化するやりかたとして、 えらい人のたどってきた歩みをそのまままねるというのは、 その先に滅びがあるんだとしても、局所的には正解なんだな、とも思った。

どうすればいいんだろう。

執筆: この記事はmedtoolsさんのブログ『レジデント初期研修用資料』より寄稿いただきました。
文責: ガジェット通信

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