映画『長崎―閃光の影で―』菊池日菜子インタビュー「自分たちと同じ世代の子たちが、こんなことを考えていたのか」と感じていただけたら

原爆投下直後の長崎を舞台に、被爆者救護にあたった若き看護学生の少女たちの “青春”を描く映画『長崎―閃光の影で―』が公開中です。
太平洋戦争末期の1945年、日本赤十字社の看護学校に通う17歳のスミ、アツ子、ミサヲは、空襲による休校のため長崎へ帰郷し、家族や友人との平穏な時間を過ごしていた。しかし、8月9日11時2分、長崎市上空で原子爆弾がさく裂し、彼女たちの日常は一変。街は廃墟と化し、彼女たちは未熟ながらも看護学生として負傷者の救護に奔走する。救える命よりも多くの命を葬り去らなければならないという非常な現実の中で、彼女たちは命の尊さ、そして生きる意味を問い続ける—。
原爆被爆者を救護した日本赤十字社の看護師たちが被爆から35年後にまとめた手記「閃光の影で-原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記-」を基に脚本が執筆された本作。菊池日菜子、小野花梨、川床明日香といったフレッシュな新鋭が3人の看護学生の少女を演じ、自身も長崎出身の被爆三世である松本准平が監督を務めています。菊池日菜子さんに撮影の思い出や本作への想いなど、お話を伺いました。
——本作でのお芝居凄かったです。素晴らしい映画をありがとうございました。菊池さんご自身も本作の脚本を読んで心を揺さぶられたそうですね。
最初、スミを演じさせていただくということで自分のセリフに注目しながら読み進めていたのですが、アツ子ちゃんの家族が瓦礫の下で苦しんでいる描写が出てきたあたりから、自分の役のことをそっちのけで物語にすごく入り込んでいきました。この映画に出演するという意識が無いまま、この物語の惨さをまっすぐ受け止めてすごく辛くなり、涙が止まらなくなりました。次の日から一週間くらいかけて読み込んでいくうちに、私はスミを演じるのだという意識がどんどん強くなってきて、この作品に対して誠実でありたいと思いました。
——撮影自体は入ってからはどういうお気持ちで過ごされましたか?
とにかくずっと不安ではありました。1945年にこの体験をした方がいらっしゃって、その方々が残した手記を基に作った作品に、その時代を経験していない私が参加することの罪悪感もあったんです。当時を想像しても足りないような状況ですし、でもだからこそ思考し続けようと思っていて。今考えるとすごく苦しかったのですが、撮影の1ヶ月間は考え続けることを止めない様にしていました。
——その日の撮影が終わっても、次の日の撮影を考えて、ということの繰り返しだったのでしょうか。
日常を描いているようなシーンがほとんど無く、どのシーンも重く大切なものでしたので、戦いの日々でした。その日の撮影が終わっても気が休まるということはありませんでしたね。
——撮影が入る前に戦争や原爆に関する資料などを読みましたか?
作品のベースになっている「閃光の影で 原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記」(日本赤十字社長崎県支部)を何度も読み込みました。これは偶然なのですが、私は大学で「現代技術論」というカリキュラムで、科学的な視点から原爆について切り込んでいく授業を受けたことがありました。日本からだけの視点ではなく、アメリカから見た原爆に対する思想なども学んでいたので、多角的に原爆というものを捉えた状態でこの作品の台本を読めたことも良かったと思っています。
私は地元が福岡で長崎に近く、原爆資料館には何度か訪れています。九州地方は長崎の原爆の平和学習には力を入れていて、小中高と勉強をさせてもらいました。でもそこにあぐらをかかずに、ちゃんと知識を入れておくことが必要だと思いました。

——菊池さん、小野花梨さん、川床明日香さんの3人の空気が本当の学友の様で素敵でしたが現場ではいかがでしたか?
現場ではあまりコミュニケーションを多くはとっていませんでした。作品の肝となるシーンが毎日の様にあったので、カメラがまわっていないところでも役柄に入り込んでいないと本番で出来ないだろうなと思っていました。
「次はアツ子ちゃんが大変なシーンだからあまり近づかないようにしよう」とか、お互いが集中している空気を崩さない様にという気遣いがチーム全体で常にあったようにも思います。3人で喧嘩をするシーンがあるのですが、日の入り待ちで1時間半くらい待機をしたんです。そこでも一言も会話せずに、お互いの集中を崩さない様にしていました。
打ち上げの時に初めてちゃんと話せたことがすごく嬉しかったです。私は2人のお芝居が前から好きで、初めてご一緒できたので、その喜びも伝えられました。スタッフの皆さんにも感謝を伝えることができて本当に良い時間でした。
——言葉は無くともお互いを労り合っていたことが伝わります。
お互い分かっていたんだと思います。無言で気まずいことなど一切無かったですし、役との向き合いが真剣に出来ていたなと思います。
——撮影前に監督とどの様なコミュニケーションをとりましたか?
「スミとして頑張ります」と挨拶したときに感情の閾値を超えて、たくさん涙が出てしまって。その段階でボロボロだったのでそれ以降のことはあまり覚えていないんですが、唯一覚えているのは、スミとして言葉を発することに申し訳なさを感じていたことです。それを自覚していたことで、彼女に対して考え続けることの決意を抱くことが出来たと思います。
台本を読んでいた時から、アツ子ちゃんやミサヲちゃんがカッコよく見えていて、彼女たちの正義をしっかり持っているのに、スミは何も持っていなくて、ゆらゆらしている感じが、なんだか許せなかったんです。自分が演じる役に対して納得出来ていない部分もあり複雑な想いがありました。
——主演ということでプレッシャーも強かったかと思います。
マネージャーさんに台本をいただいたときに、「座長として何かするべきことはありますか?」と聞いたら「スミのことだけ考えていればいい」と言ってくださって。そのこともあって、あまり主演のことについては気負わずにクランクイン出来たのですが、エキストラさんも多く、一日一日で関わる方が変わっていく現場だったので、ここで感謝を伝えないと逃してしまうという機会が多くて。お一人お一人に「この作品に携わってくださってありがとうございます」という感謝を伝えなきゃという意識が芽生えました。

——撮影は順撮りで行っていったのですか?
最初の鉄道の中のシーンは最終日だったんですが、それ以外はほとんど順番通りに撮影出来ました。特に勝さんとのシーンは、病気の進行具合も含めて変わっていく心情も順番通りでないと難しかったのでとても助かりました。
——受け取る方によって印象に残るシーンもそれぞれだと思うのですが、私は冒頭でスミが洗濯物を干していて、お母さんに「空襲警報だから家に入っちゃいなさい」って普通に言われる所から引き込まれて。日常に戦争があふれているということがすごく恐ろしいことだなと思いました。
私も最初は、空襲警報自体がすごく怖いものだという認識だったので、急がなきゃと思っていたのですが、監督から「これが日常だから、みんな慣れてしまっている部分があって、母親に急かされるくらいゆっくり入ろうとしているのが生々しくて良いと思う」と言われて。当時を生きる人の感覚と、今の自分の感覚はかなり違うため、そういった監督のお話のおかげで想像力も高まりました。
——菊池さん、小野さん、川床さんが歌唱する主題歌「クスノキ ―閃光の影で―」は長崎出身の福山雅治さんがプロデュース・ディレクションをしていますね。
最初は「クスノキ」をそのまま主題歌に使わせて欲しいと監督がお願いしたそうなのですが、福山さんが「絶対に、3人で歌った方が良いと思う」とおっしゃってくださったみたいで。先日福山さんのライブにお邪魔して少しだけお話しさせていただく機会もあったのですが、すごく素敵な方でした。
——皆さんが歌ってくださることによって、スミ、アツ子、ミサヲが奪われた青春が歌の中でも表現されている感じがして、涙がこぼれました。スミ世代の皆さんにもぜひ大きなスクリーンで観ていただきたいです。
ありがとうございます。彼女たちが生きた時間が歌として流れてくるから泣けてしまいますよね。
この映画で描かれているのは、17歳くらいの女の子3人が一生懸命生きている姿です。彼女たちが1945年という時代をどう生きていて、何を感じていたのか。自分が生きる上で何を選択していくのかということを、「自分たちと同じ世代の子たちが、こんなことを考えていたのか」と感じていただけたら嬉しいです。そして、自分がこれからどう生きていくのかを考えるきっかけにもなればいいなと思います。戦後80年を機にこの映画が世に出ていくことをとても誇りに思っています。
——今日は素敵なお話をどうもありがとうございました。

撮影:たむらとも

(C)2025「長崎 閃光の影で」製作委員会

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