地図が秘めた秘密、地図が生む狂気〜ペン・シェパード『非在の街』

地図が秘めた秘密、地図が生む狂気〜ペン・シェパード『非在の街』

 邦題の『非在の街』は、物語の主題となる実在と架空のはざまにある街のことだ。そこには特別な方法でしか行くことはできない。そんな場所がいかなる理由で成立し、どのように存続し、そしてまた消え去ろうとしているのか……。このアイデアだけを取りだしてみると、ロバート・シェクリイやフィリップ・K・ディックの短篇のようだ。そういえば、ディックに「地図にない町」という作品があった。

 ただし、『非在の街』において、街そのものが扱われるのは物語がだいぶ進んでからであって、当面は現実世界で生きる人物たちの側で進行する。

 原題はThe Cartographers。地図制作者たちという意味だ。そう、この作品に登場する多くの人物が、なんらかのかたちで地図にかかわっている。

 主人公のヘレン・ヤング(愛称はネル)は、父母ともに優秀な地図学者の子として生まれ、自身もその分野で実績を積みつつあったが、古い地図の真贋をめぐる「ジャンクボックス事件」で、アカデミックなキャリアから追われてしまう。彼女を追放したのはほかならぬ父親、ニューヨーク公共図書館の地図研究者で、ネルにとっては大先輩にあたるダニエル・ヤングだった。ちなみに、ネルの母タマラは、ネルが幼いころ、火災からネルを救いだして亡くなっている。もっともネルは具体的なことを覚えてはいないし、父もそのことを話そうとはしないのだ。

「ジャンクボックス事件」ではネルの巻き添えを食って、彼女の同僚で恋人だったフィリクスも職を辞するはめになる。彼も地図研究者としての前途を諦めたかたちだ。

 その後、ネルは古地図のレプリカを製作する小さな会社に拾われ、地図デザインの仕事で糊口をしのいでいる。フィリクスは、高機能なデジタル地図システムを開発する企業に入社した。ふたりとも学究的な道から逸れても、地図から離れることできないのだ。

 ネルの雇い主であるハンフリーが手がけるのは時代がかった大衆美術品、フィリクスが勤める会社〈ヘイバーソン・グローバル〉の創設者であるヘイバーソンが開発したのは高度システム。非常に対照的だが、ハンフリーもヘイバーソンも地図に人生にかけた人物という点では共通する。そのほか、古地図商のラモナ・ウーや何人もの地図学者が、重要な役割を果たす。

 物語は「ジャンクボックス事件」から七年後、父とは疎遠になっていたネルのもとに、その父の死が伝えられるところからはじまる。父はニューヨーク公共図書館のオフィスで急死し、重要なものだけを入れる書類ばさみに一枚の地図を残していた。地図に詳しいネルが見ても、それは平凡な道路地図だった。こんなものを、なぜ父は大事にしていたのか。

 しかし、その地図から得られるかぎりの情報を研究施設共同データベースで検索してみて、ネルは愕然とする。類似の資料は二百件以上ヒットするのだが、それらはことごとく紛失・破損・盗難のため現物がないのだ。

 もしかすると父の死は、この消えた地図の意味と関係しているのではないか? ネルは父が残した、ただ一枚の地図を頼りに謎を追うことになる。そして、フィリクスも(もう恋人ではなくなっているのだが)、彼女を手伝うことになる。

 一枚だけ残った、一見なんの変哲もない道路地図。

 それ以外にも、この作品には地図に関係する魅力的なギミックがいくつか登場する。

 まず、父ダニエル・ヤングと母タマラが学生時代に、同じウィスコンシン大学で学ぶ仲間たち(いずれも地図学者の卵)と構想したテーマ『夢見る者の地図帳』。空想小説のなかに描かれた地図を現実の地図として扱い、子細を研究しようというものだ。もとの発想はダニエルで、まっさきに興味を持ったのがタマラだった。そして、プロジェクトを一番熱心に推進したのが、タマラと子どものころからつきあいのあるウォーリーである。ウォーリーはこの物語の後半にたいへん重要な役まわりで、読者の前に姿をあらわす。

 もうひとつのギミックは、フィリクスが勤める〈ヘイバーソン・グローバル〉が構築した絶えず進化をつづける〈ヘイバーソン・マップ〉だ。じゅうぶんなデータを統合できれば、いかなるものも追跡でき、見つけることができるというのがその基本思想である。

 三番目のギミックは、地図の著作権をめぐるフェイクである。Aという会社が元々の地図を作成し販売していた。後続のB社は自社では測量せず、A社の地図を複製してリリースする。A社はB社の不正を暴くため、自社の地図にわざと実際にない街を紛れ込ませた。案の定、B社はあるはずのない街を記載した地図を売りはじめる。A社はそれを根拠に、B社を告発しようとするが……。巻末に収められた著者ペン・シェパードの「謝辞」によれば、このギミックは実話に基づいたものだという。

 これらを巧みに組みあわせ、この作品は、現実と地図、実在と架空をいくたびも往還、または反転してみせる。

(牧眞司)

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