町田康『俺の文章修行』の覚悟に打たれる!
町田康氏『くっすん大黒』(文春文庫)を初めて読んだ時の胸の高鳴りを、今も忘れていない。それまで好んで読んできた小説にはなかった凄みのようなものに、私は夢中になった。あれからもう三十年近く経つが、読む者を笑わせながらブスブスと刺してくるような迫力のある文体には、新刊が出るたびに心を打たれる。
なぜあんなふうに言葉が出てくるのか? 天才ってすごいわ……、とうっとりしていればそれだけでも幸福だったのだが、『俺の文章修行』という題名のこの本を読むにあたり、ちっぽけな野心を持ってしまった。これを読めば自分も町田康氏になれる!と思うほど身の程知らずではないのだが、表現力のなさを日々悔しく思っている者として、イカした文章を書くコツのようなものをちょこっとでもつかませてもらえたらいいなあ、みたいな図々しい気持ちである。
読み終わった今、自分の軽薄さを心から恥じている。後ろからキツイ蹴りを、バスッと入れてやりたい。姿勢を正して読んどけよ!とビシッと言ってやりたい。そんな気分だ。
文章を作り上げるためのさまざまな技と、自分の内面に生まれ出たものを表現するために必要なことが、唯一無二のあの文体で書かれていく。それだけでゾクゾクするが、著者自身の読書歴や体験、具体的な文章例も惜しみなく次々に挙げられていく。なぜ、町田康氏の書く小説やエッセイに惹かれるのかが、わかる。同時に、この本を読めばすぐに文章が上手くなるということは絶対にないということも、わかる。技を使いこなすためには、長い時間と身を削るような努力がまず必要なのだ。自分の中に生まれた「糸クズ」を文章として外側に出すためには、「雑な感慨」に流されず内面と向き合う覚悟が必要なのだ。必死の努力や苦しみに耐える修行を、私は一度でもしたことがあるのか? 最後の数章の迫力はすごい。著者の中から出てきたものが、読んでいる私の中に乗り込んできて、暴れまわっているようだ。
なぜ文章を書きたいと思うのかというと、それは自分が生きているからだ。読みたいと思うのも、自分が生きているからだ。その根本的なことを忘れ、適当にかっこよく見せようとすることばかり考えていたら、自分の中にあるものは何も出てこないし、誰かに何かを伝えることはできない。そのことがわかっただけで、この本を読んでよかったと思う。これから何度も、繰り返し読まなくてはならない本である。
(高頭佐和子)
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