夜を描く落語ミステリー〜愛川晶『モウ半分、クダサイ』
口承文芸の本質とミステリーの趣向が理想的な形で結合した小説である。
愛川晶『モウ半分、クダサイ』(中央公論新社)は、著者が得意分野とする落語を題材とした連作形式の作品である。表題作の他、「後生ハ安楽」「キミガ悪イ」の二話が収録されており、全体で一つの構造が見えてくるように設計されている。
落語ミステリー、と聞いて大半の人が思い浮かべるような、ほんわかとした笑いだとか、江戸の粋だとか、そういうものからは遠くかけ離れた世界が描かれているので、まず注意を喚起しておく。ここで展開されるのは落語は落語でも「死神」とか「穴泥」とか「黄金餅」とか、そっちのほうの世界である。誰でも真っ当に生きたいという望みは持っているだろうけど、どうにもならないしがらみだとか、あるいは貧、または色欲というようなものはあまりにも磁場が強く、そちらにねじ曲がってしまう。ままならないところに足を踏み入れてしまった人々の窮状を黒い笑いと共に綴る落語も世の中には存在するのだ。
表題作の語り手〈俺〉、朝原洋介は八坪に十六席ほどのバーを経営している。客が少なく暇なある晩、歳の離れた妻の紗英に薦められて朝原は早上がりをする。まっすぐに帰らず立ち寄った居酒屋で話しかけられた奇妙な男から、会費は一万円だが「飛びきりの恐怖を味わえる」という落語会を紹介され、行く気を起こした。出演者が花山亭喜龍だと聞かされたことも大きい。実は朝山は、若いころに暴力団に籍を置いていた。過去には喜龍と行き交う縁もあったのである。
午後二時、訪ねていった会場は寄席などではなく、元中華料理屋の二階をそのまま使っているような荒れ果てた場所だった。やって来た客は朝山ただ一人で、構わずに会は始まってしまう。高座に現れた喜龍は、かつての二枚目が嘘のように老いさらばえていた。その風貌で語るのは「もう半分」である。よりにもよって「もう半分」とは。
怪談、あるいは因縁譚というべき噺である。永代橋のたもとに夫婦で営んでいる居酒屋がある。そこにやってくる棒手振りの八百屋は、毎回わずかな酒をちびちびと飲む。一合もらうところを五勺頼み飲んでしまったところで「もう半分」と言うのだ。そうすることで、少しでも多く飲んでいるという気分になるらしい。
ある晩、その八百屋が店に風呂敷包みを忘れていく。中に入っていたのは身形に似合わぬ大金だった。女房にたきつけられ亭主はそれを猫ばばし、戻って来た男には金など無かったと言い張る。それは八百屋が娘を吉原に売って作った訳ありの金だった。親切だった居酒屋夫婦がそんなことをするなんて、と世を儚んだ男は大川に身を投げて死んでしまう。その因果が報い、やがて居酒屋の女房が生んだ赤ん坊は、八百屋の親父にそっくりな風貌だった。
というのが「もう半分」のあらすじである。ここからもっと陰惨な展開になる。怖い、というのもあるが、一口で言えば嫌な話だろう。「もう半分」という題名は、お察しのとおり落ちにからんだものである。喜龍から「もう半分」を聴かされた朝山は、それはもう嫌な気持ちになる。噺の内容が、過去にあった出来事に重なる内容だったからだ。暴力団時代、朝山は組の指令である男を破滅させたことがあった。男には娘がいて、辛い目を見ることになったのである。
ここまでがたぶん、書いても構わない部分だろう。朝山は喜龍の噺を聴いたあとで、自分を落語会に誘った男と再会し、「もう半分」という落語についての蘊蓄を聞かされて驚愕することになる。なぜ驚いたのか、というのは伏せておこう。
古典落語というからにはきちんとした台本があり、それを落語家は忠実に守ってやっている、と思っている人は少なくないはずである。実際にはそうではなく、語り芸の常として落語の内容は演者によって大きく異なる。他の流派では与太郎と呼ばれるキャラクターの名前が古今亭では松公になったりするのはごく普通のことだし、「死神」のように演者が落ちを変える競争のようになっている噺も少なくない。そうした枝葉だけではなく、話の流れもしばしば異なる。だから聴けばその落語家が誰の弟子から教わったかがすぐわかるのである。
口承文芸はテキストが存在しないのと同じなので、再演されるたびに否応なく変化する。客の前で演じる芸なので、反応によって修正が加えられていく。ウケた箇所は強化され、滑ったところは削られる。当然のことだ。落語の稽古は基本的に口移しで、誰かが演じた形をそのまま覚えさせてもらって自分のものとする。だから変化や修正もまた、受け継がれることになるのだ。
『モウ半分、クダサイ』ではここがミステリーの技巧と重なるのである。ミステリーもまた、先人の作品に学び、応用形を自作に用いることで連綿とつながる系譜を築いてきた。千街晶之はこれを「終わらない伝言ゲーム」と読んだが、伝言ゲームの間に起きる変化は口承文芸のそれとは異なるが、絶対の基本形というものが存在せず、中心の周囲にある連なりで成り立っている点は同じだろう。朝山を驚かせたのも、この落語の伝言ゲームによって生み出された変化だったのだ。
第一話を長く紹介したのは、後の二話もこの形式を踏襲しているからである。どの話にも老いさらばえた花山亭喜龍が登場し、一席語ることで観客に恐怖を与えていく。第二話からは弟子のきょう龍が登場する。うら若い女性の弟子なので、そこからエロティックな雰囲気が増す。最初に書いたように色欲もまた人生を誤らせる要因の一つだから、これも恐怖を醸し出すための仕掛けなのである。落語ミステリーらしく、どの話も幕切れの一行には凝っている。落語のオチだと考えれば、実に切れ味は鋭い。
愛川晶には、実在した大名跡・八代目林家正蔵を主役に配した〈昭和稲荷町らくご探偵〉や、そこからのスピンオフ作品である〈落語刑事サダダキチ〉などのシリーズ作品がある。1994年に長篇『化身』(創元推理文庫)で鮎川哲也賞を受賞してデビューしているので、2024年で30周年。その節目に発表したのは、落語ミステリーに対する読者の思い込みを覆すような実験作だった。昼だけじゃないよ、夜を描くのも落語なんだよ、という作者の言葉が聞こえてくるようだ。
ちなみに本作は2010年に早逝した愛川の盟友・北森鴻に捧げられている。北森は代表作の一つである〈蓮杖那智フィールドファイル〉シリーズが角川文庫から復刊されたばかりだ。できれば併せて読んでいただきたいと思う。
(杉江松恋)
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