表裏2つの物語が響き合う〜ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』
テート・ベーシュと言うのだそうである。フランス語で「頭と足が接した」の意。
ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』(越前敏弥訳。早川書房)の表紙は赤と青の二色に塗り分けられている。仮に、ISBNコードがある側を裏とすると、表が赤、裏が青だ。仮に、と書いたのは青の側にも『ターングラス 鏡映しの殺人』という題名が掲げられているからである。ただし、赤の側とはさかさまに。ページを開いてみると、両方から本文が始まっている。赤は「ロンドン、一八八一年」と最初に掲げられた「エセックス篇」、青は「ロサンゼルス、一九三九年」で始まる「カリフォルニア篇」だ。前後から本文が始まり、真ん中でぶつかる構造なのである。そうした「上下逆さまに印刷されたふたつの部分に分かれる本」が、テート・ベーシュだ。
「エセックス篇」の視点人物は、シメオン・リーという医師だ。コレラ根絶のため資金を集めようとするシメオンだが果たせず、困窮状態にある。その彼が、エセックス沿岸のレイ島へ向かう。同地で司祭の地位に就いている叔父のオリヴァー・ホーズが体調を崩し、助けを求めていたのだ。シメオンの眼前で容体はどんどん悪化し、オリヴァーは何者かが自分を殺そうとしている、と疑念を口にする。
「カリフォルニア篇」の視点人物は、映画俳優の卵であるケン・コウリアンである。彼はデューム岬の館で開かれたパーティーで、主であるオリヴァー・ジュニアと知り合った。カリフォルニア知事オリヴァー・トゥックの息子で、作家である。オリヴァー・ジュニアには幼少期に何者かの手で誘拐された過去があることがすぐに明かされる。一緒に誘拐された弟のアレグザンダーはついに戻らず、オリヴァー・ジュニアだけが生き残った。
このあと不審死をする者が出て、真相を主人公が追究する、というのが共通したミステリーとしての構成になっている。それだけではなく、両篇は構造的に重なる部分が多い。一つの基本形から二つの物語を書きあげたような塩梅になっているのだ。シメオン、ケンはそれぞれの主人公だが、後からレイ島、デューム岬に来た存在であり、基本的には外部の人間である。それゆえ、元から事態の渦中にいた人と行動を共にすることになる。両篇ともそれは女性で、「エセックス篇」ではオリヴァー・ホーズの義妹にあたるフローレンスである。フローレンスはオリヴァーの弟ジェイムズの妻だったが、今は事情あって軟禁生活を送っている。「カリフォルニア篇」ではオリヴァー・ジュニアの妹であるコララインがケンと行動を共にする。二人は長距離を旅するので、こちらのパートはロード・ノヴェルの色彩を帯びている。
どちらの物語にも紛らわしくオリヴァーという名の登場人物がいることに気づかれたと思う。実は同名の登場人物は複数いる。これも一つの鋳型から二つの物語が生み出されたように見える原因だ。どちらの事件も謎を解く鍵は過去にあり、シメオン/ケンは時間を遡られなければならない。
「エセックス篇」「カリフォルニア篇」の本質的な構造を如実に表しているのが〈ロマン・ア・クレ〉、すなわち鍵の小説である。それ自体が真実の扉を開く鍵になるという本が、どちらの物語にも登場するのである。「エセックス篇」では、『黄金の地』という中編小説がそれにあたる。一九三九年二月のカリフォルニアから始まる物語だから、「エセックス篇」の一八八一年からすれば未来の小説ということになる。なぜか話は本の半ばで終わっていて、あとは白紙が続いている。シメオンはこの本を読み、ある秘密に気づくのである。
「カリフォルニア篇」に登場するのは、その名も『反転硝子(ターングラス)』という、オリヴァーが書きかけている小説だ。この小説がやはりケンに真実を指し示す。こちらではターングラスは物語の題名だが、「エセックス篇」では叔父オリヴァーが済んでいる館の名前である。そういう形で相似形は少しずつずれている。
両方の〈ロマン・ア・クレ〉とも巻末まで字の詰まった小説ではなく、中途で終わっている。成り成りて成り合わざるもの同士を組んだ、太極のような形というのが『ターングラス』を読んで感じる全体のイメージだ。
ただし、物語を構成する要素としては「エセックス篇」と「カリフォルニア篇」で意味合いが異なるように思う。時代が先ということもあるが、「エセックス篇」を前提として「カリフォルニア篇」があるようにも感じたからだ。もっとも、私は「エセックス篇」を先に読んでから「カリフォルニア篇」に入ったので、逆の読み方をすると印象は変わるかもしれない。だが折原一『倒錯の帰結』(講談社文庫)のような、両方の物語が対等の位置づけになっている作品ではないことは確かである。そのことは、テート・ベーシュの構造で書かれたという趣向を少しも損なうものではないのだが。読後に残る、何かまだ見落としているものがあるのではないか、という尾を引く感覚こそが本作の醍醐味であろう。
この作品が発表されたのは二〇二三年で、歴史小説の形式をとっているが、現代ならではの視点が含まれている。何人かの登場人物がたどる運命の描き方、無自覚に行使される暴力の残酷さなどに作者の考えが表れているように思うが、解釈は個々の読者にお任せしよう。「訳者なかがき」によれば本作には続篇が準備されているという。それがどのようなものかは、少なくともどちらかの物語を読み終えて「なかがき」に到達した人へのごほうびとして伏せておきたい。
赤でも青でも、とにかくまずお読みになってみることをお勧めする。
(杉江松恋)
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