食がつないだ『縁』から始まる物語〜河尻みつる『ホストと社畜』
シフト制の接客業に就いた時、予想外だったことの一つに「ランチタイム」があった。考えてみれば当たり前のことだが、世の中の人が休んでいる時の方が店は混む。土日祝日はもとより平日のランチタイムも立派なかき入れ時であり、店員としてはその時間を終えてから休憩を取るのが理に適う。早番シフト時はその調子で、遅番シフト時に至っては、夕飯と呼ばれるような時間に昼食を摂っていた。だからこそ、いつでも安くて美味しいごはんが食べられるチェーン店は、何よりの味方だった。
本作の舞台は、そんなチェーン店のひとつだ。朝から晩まで「社畜」として働くシステムエンジニアの鈴木直人(すずきなおと)と、No.1ホストの佐々木蓮(ささきれん)。ふたりは午前5時に、新宿歌舞伎町にある牛丼屋で揃って飯を食う。
といっても、彼らは友達でも恋人でもない。互いの職業はなんとなく察しているが、名前は知らない。連絡先も交換していない。まったく別の世界で生きるふたりは、その時間、その場所で、隣に座って朝食を摂るだけの不思議な仲だ。
一話読み切りの本作は、隔週刊誌の『漫画アクション』で連載されている。キャラクターの視点は話によって切り替わり、時に牛丼屋の店員さんから見たふたりを描く回もある。いわゆる「グルメマンガ」というよりは、「食がつないだ『縁』から始まる話」という方がしっくりくるかもしれない。
ふたりが会話をするようになったきっかけは、半熟の目玉焼きだ。ある朝向かいの席で、美味しそうにそれを食べる佐々木と、その姿に見とれた鈴木はたまたま目が合う。後日、公私にわたり不運続きの鈴木がなんとか牛丼屋へたどりつくと、いつもの朝定食は売り切れていた。いよいよドツボの鈴木だったが、思いがけず佐々木に救われる。無事に朝定食にありついた鈴木は、半熟の目玉焼きに目を見開く。一日の不運を吹き飛ばすには十分な旨さだった。
この日を境に、ふたりは隣同士で朝定食を摂るようになる。他愛なく、どこにでもありそうでありえない出来事の加減がいい。程よい距離感はその後、日常の中で感じた悩みや迷いを話すようになっても続いていく。名前も知らないまま、互いの何気ない言葉が意外な刺激や支えとなって、それぞれ周囲との関係が変わっていくのも心地よい。
各話は14~16ページと短めで、いずれもほっこりすることうけあい。ただ読む時間に気をつけないと、牛丼屋へ行きたい気持ちがうずいて困る。良い意味で、表紙とタイトルに裏切られる1冊でもあろう。ちょっと気持ちが疲れている時にもぜひ。
(田中香織)
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