立派でも偉大でもない人々の姿が愛しい〜木内昇『惣十郎浮世始末』
半鐘がけたたましく鳴り響く火事の場面から、物語は始まる。燃えているのは薬種問屋の興済堂である。威勢の良い火消したちが、手柄を取り合って喧嘩を始める。江戸時代に来たぞーっ!と気持ちが高まったところに、この小説の主人公である定町廻同心の服部惣十郎が現れ、火消したちに呆れながらも、協力し合うように諭す。現場からは二人の遺体が発見されるが、火事で死んだのではないらしい。誰かが彼らを殺し、火を放ったのか。
魅力的な人物が、たくさん登場する小説である。惣十郎の仕事を支えるのは、小者の佐吉と、元巾着切りの岡っ引・完治だ。単純で怖がりな佐吉と、行動力があり機転が効く完治は、気が合わず何かといがみ合う。そんな二人を、惣十郎はうまく使い分けている。事件があった時に検屍を依頼するのは、浮世離れした美貌と蘭方医学の知識を持つ梨春だ。子ども時代に辛い経験をしており、疱瘡の苦しみから人々を救いたいという志を持っている。種痘を広めるための蘭書を世に出したいという梨春の思いを、実現しようと奔走する書肆・須原屋の夫妻も興味深い。
一緒に暮らしているのは、母の多津と下女のお雅である。お雅は火事のあった興済堂付近を差配している家主の娘だ。嫁いだものの三年で離縁されてしまい、扱いに困っていると家主に相談され、足の弱った母の世話係として迎え入れることにしたのだが、母との仲も良く働き者で助かっている。無愛想にふるまっているが、惣十郎のために作る料理は手がこんでいて、めちゃくちゃ美味しそうである。
惣十郎は、尊敬する廻方だった悠木史享の娘と五年前に所帯を持ったのだが、妻となった郁は二年も経たないうちに謎の急病で亡くなってしまった。密かに思っている女性がおり、郁に十分な愛情をかけられなかったこと、敬愛する義父を悲しませてしまったことを悔いている。周囲の人々を頼りにしながら、実直に事件に立ち向かう惣十郎は、他者の心を思いやることのできる優しさがある人間だ。女性の心理には疎く、お雅の気持ちに全く気づかないのが読者としてはもどかしいのだが……。
興済堂から発見された遺体のうちの一人は店主と思われていたが、ある遺品が発見されたことから、別の人物であることに惣十郎は気がつく。完治の尽力により犯人は捕まるが、事件の全貌はなかなか見えてこない。町では他の事件も起きる。それらを解決していくうちに、自分自身の人生にも大きく影響する驚くべき真相に、惣十郎は導かれていく。
疫病に怯え、政治に翻弄され、理不尽な運命に苦しみ、家族の問題に悩みながらも、人々は懸命に行くべき道を進もうとする。自分の思う正義を貫こうとした結果、罪を犯してしまう者もいる。立派でも偉大でもない普通の人々の姿が愛しく悲しく、今を生きる私たちの現実を重ねずにはいられない。簡単には上手くいかない人生を、大切な人への思いだとか苦い後悔だとかを心の中に抱き、自分の中にあるなんらかの軸を頼りにして、私たちも生きていくしかないのだろうと思う。大事なことを教えてくれた惣十郎たちに、いつの日かまた会えるだろうか。
(高頭佐和子)
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