令和一おもしろい青崎有吾の連作短篇集『地雷グリコ』
普通の小説は前から書き、ミステリーは後ろから書く。
後ろから書くといっても文末から始めるという意味ではない。最後に明かされる真相を決めておき、すべての要素が行き着くようにその前を計算して組み立てるということだ。
この技巧性がたまらなく好きという人がいれば、作り物めいていて嫌という読者もいる。
好みは人それぞれ。それで構わない。
でも、作り物めいていて嫌という読者を振り向かせることができれば、ミステリーはもっと広がっていくんじゃないか。
そんなことを青崎有吾『地雷グリコ』(KADOKAWA)を読んで思ったのである。後ろから書く必要があるというミステリーの技巧をすべて使い、その上で普通小説の読者に届くような情感を盛り込むことは可能なはずだ、と青崎は考えた。実行した。できてしまった。
そういう小説である。
都立頬白高等学校一年生の射守矢真兎を主人公とする、全五話とエピローグから成る連作短篇集だ。複数の視点が使われるが、主となるのは真兎とは中学からの親友である〈私〉こと鉱田のものである。その〈私〉と真兎がいる一年四組が、頬白祭でカレー屋を出すことになったところから話は始まる。希望する場所は屋上だ。匂いが強いから屋内でのカレー提供は禁止されているのである。屋上は人気の場所で、しかも一団体しか取ることができない。頬白祭開催に当たっては、毎年その権利を巡って熾烈な闘いが繰り広げられていた。屋上を目指すところから、ついた異名が愚煙試合。馬鹿と煙は高いところに上りたがるからだろうか。
闘いといっても野蛮な肉弾戦ではなく、ルールのあるゲームが行われる。予選を勝ち抜いた一年四組が決勝で対戦することになったのは生徒会であった。一年四組を代表する真兎の前に立ちふさがるのは、一年生のときから愚煙試合に参加し、二年連続で生徒会に勝利をもたらしたという三年一組の椚迅人である。二人が争う種目は、地雷グリコだ。
巻頭の表題作はこういう始まり方をする。地雷グリコとはなんぞや。じゃんけんをして、グー、チョキ、パーのいずれかで勝てば、その決まり手に応じた数だけ階段を上がることができる。さきにゴールに着いたほうが勝ち。これが一般的なグリコだ。その階段に地雷を仕掛けることができる。もちろん本当に爆発するわけではなく、両方のプレイヤーが事前に指定した場所に相手が止まったら、十段下がらせられるのである。そうした地雷がそれぞれ三、計六ヶ所仕掛けられる。これが地雷グリコである。
独自ルールの性質をいかに素早く理解できるか。ルールの穴を見抜き、どのように利用できるか。そして相手をどうやって嵌めることができるか。頭脳を駆使すると共に、互いの戦術を読み合う心理戦が行われる。何手も先を読んで、相手の行動を正確に察知できたほうが勝つのだ。強敵椚を相手に、真兎はどんな先方に出るのか。
こういうゲームがいくつも描かれる。「坊主衰弱」は百人一首かるたを用いた神経衰弱、「自由律ジャンケン」は対戦者が五つの決まり手で闘うじゃんけん、「だるまさんはかぞえた」は昔懐かしいあの遊びに心理戦の要素を加えたらまったく違う形になってしまったゲーム、そして最後の「フォールーム・ポーカー」は、という具合に毎回未知の、しかし基本的にはどこかで見たことがあるゲームが描かれる。そのルールを読むだけで胸が高鳴ってくる。全国のミステリー同好会はきっとこれで遊ぶだろうな。私だったらやるぞ。おもしろそうなんだもの。
オリジナルのルールが実に魅力的に語られる物語、ということで人気ゲーム漫画の題名を連想する読者は多いはずだ。あれもこれも、と並べてみてもらいたい。私はその方面に弱いので具体的に挙げるのは止めておく。漫画とミステリーに共通する娯楽物語の要素をやすやすと汲み取って自作に応用した作者の力量に感心するばかりである。
上に書いたような先の読み合いの心理戦は、実はエラリー・クイーンを始めとする古典探偵小説の書き手が追求した技巧とぴったり重なる。詳しくは飯城勇三『エラリー・クイーン論』(論創社)などの評論書を参照いただきたいが、クイーンは犯人と探偵が相手の繰り出す手を読み合う心理戦を想定して謎解きの構造を組み立てた作家だった。犯人は、探偵はこう推理するだろうと嵌め手を考える、探偵はそれを見事に読み取る、という図式である。つまり『地雷グリコ』は、クイーンの技巧に則って書かれた折り目正しいミステリーなのだ。これ以外にも、手がかりの埋め込み方や、読者に理解しやすい形で論理を噛み砕いて説明するやり方など、ミステリーに詳しければ詳しいほど脱帽するような技巧が詰まっている。
2012年に『体育館の殺人』(創元推理文庫)で第22回鮎川哲也賞を獲得してデビューした青崎は、その作風から「平成のクイーン」と呼ばれた。デビュー作に始まる裏染天馬シリーズは高校生を主人公とした典型的な探偵小説だが、実はそれ以外の物語形式にも造詣が深く、自分でも書けることを次第に明らかにしていったのである。アニメ化もされた〈アンデッドガール・マーダーファルス〉シリーズ(講談社)は、伝奇ロマン的な世界観と活劇小説の興趣を組み合わせ、物語は起伏に満ちているが根底には手がかり呈示と論理的な謎解きを核としたミステリーの構造があるという作品だ。シリーズもの以外を集めた作品集『11文字の檻』(創元推理文庫)は青崎ショーケースというような内容だが、その中には「恋澤姉妹」という、愛と執着と死を描いたたまらない短篇も含まれる。2020年代になってからの青崎は〈クイーン〉と呼ばれた平成のイメージを保持しつつも、それを遥かに凌駕するような作品で自分のイメージを塗り替えてきた。令和になってからの青崎を表現するキャッチフレーズは私には思いつけない。「令和一おもしろい」というのはどうか。
その青崎が持てる力のすべてを駆使して書いたのが本作である。2023年も最後になってとんでもない作品が出てきた。「このミステリーがすごい!」などの年度からは外れてしまったが、これが2023年のベストだろう。日本推理作家協会賞もこれで獲るだろう。というか、協会は青崎に受賞してもらうべきだ。箔がつくぞ、協会賞に。
私が最も注目して読んだのは、キャラクターの描き方だった。射守矢真兎は、普段はのほほんとしているが、いざとなると頼りになるという典型的な主人公キャラクターである。それを半ば呆れ、半ば感心しながら見守る〈私〉こと鉱田がいて、椚先輩に始まる敵が次々に現れる。敵は真兎に倒されると仲間になったり助言者になったりするのも定石である。「知っているのか雷電」役もちゃんと各話に配置される。ここまですべて必要なチーム編成だ。
問題はラスボスの描き方で、どういう風に話の落としどころを作るのだろうか、と気にしながら読んだ。ゲームだけ、論理だけじゃ駄目なのである。一般読者に届けるためには。真兎を巡る人間関係が、ゲーム展開の中で描かれ、変化して、最後は誰もが納得できる形で幕が下りなければ納得してもらえない。単に敵をやっつけました万歳、で終わっていいなら話は楽なのである。ゲームが終わった後のことまで読者が想像したくなってこその小説だ。この登場人物たちはこれからどういう風に生きていくのだろうと知りたくなってこその物語だ。前から始まって後ろで終わる物語は、その先を知りたくなるほどの流れが存在するから読みたくなるのだ。そうじゃないか。どんなにミステリー部分がおもしろくても、そこがだめなら一般読者には弾かれる。どうだ、小説としての『地雷グリコ』は。そう思いながら読んだのである。
最後までページをめくり終えて、もう一度ちょっと前に戻り、その数ページを味わってもう一回読んだ。完璧である。青崎有吾完全体を見る思いがする。ミステリーとしても小説としても完璧。やはりこの作者にふさわしいのは「令和一おもしろい」の称号だ。
(杉江松恋)
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