桜木紫乃『ヒロイン』の静かな力強さに惹き込まれる

 所属する宗教団体が起こしたテロ事件への関与を疑われ、長い年月を別人になりすまし、逃亡し続けた女性の物語である。そう聞くと、あの大きな事件を思い出す方も多いのではないかと思うが、この小説は実際の事件とは関連のないフィクションだ。プロローグでは、介護施設に勤める主人公が、レジ袋を片手に男と一緒に暮らす古い木造住宅に帰宅する場面が描かれる。刑事に取り囲まれて本名を呼ばれ、17年に及ぶ逃亡生活が終了する。罪を犯してはいないのに、なぜ逃げ続けたのか。彼女の人生に伴走しているような気持ちで、一気に読んだ。

 岡本啓美は、「光の心教団」という宗教団体に所属している。バレエ教室を経営する母に、ダンサーとして厳しく育てられたが、期待に応えることができずストレスを溜めていた。束縛から逃れるように入信し、高校を卒業してから5年間、ずっと教団施設で暮らしていた。ある日、幹部信者である貴島から突然に同行を命じられ、他の信者と共に東京に向かう。理由も知らされないままに、あちこちを歩き回らされるのだが、貴島が持っていたリュックから発生した有毒ガスが、多くの死傷者を出したことを翌日に知らされる。貴島を脅すようにして札束を受け取った啓美は、一人で逃亡生活を始める。

 最初の潜伏先は、母と自分から逃げ出した父親のいる新潟だ。啓美の力になってくれたのは父ではなく、初めて会った父の妻とその娘である。そこを出た後、貴島の行方を知っているというフリーの女性記者に出会い、彼女になりすまして埼玉の田舎でスナックを営む祖母と暮らすことになる。孫娘の「鈴木真琴」として、店を手伝いながら町に溶け込んでいくが……。

 啓美が逃亡生活の中で出会うのは、自分と同じように家族に苦しめられたり、社会から見放された痛みを持つ人々である。それぞれとの関係は、啓美を救うものであると同時に、他人になりすますという生活を維持する上での足枷にもなる。生活する場所を何度変えても、他の名前で呼ばれることにどれだけ慣れても、危険を伴う関係とわかっていても、誰かに心を寄せたり繋がりを求める気持ちを、啓美は捨て去ることはできない。さまざまな思いを内側に蓄積させていく主人公の、静かな力強さに惹き込まれた。

 家族や知人がいて、住むところや職業があって、名前がある。多くの人と同じように、そのことに何の疑問も持たず暮らしてきた。もし、名前も社会的立場も経歴も全て捨てる必要に迫られる時がきたら、私という器には何が残るのだろうか。自分自身から完全に逃げ切ることは、可能なのだろうか。そんなことを、考えずにはいられなかった。

(高頭佐和子)

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