中西智佐乃の中編集『狭間の者たちへ』に引きずり込まれる!

 2篇の中編が収録されている。主人公たちの中にあるいくつかの小さな黒い感情が、徐々に集まってきて、大きくてほぐれないかたまりになっていく。リアルな心理描写に引きずり込まれ、読み進めるほどに気分が悪くなるのに、途中で止めることができない。

 新潮新人賞受賞作である「尾を喰う蛇」は、介護の現場を舞台にした小説である。主人公の小沢興毅は、病院に正職員として務める介護福祉士だ。夜勤が多く、休みは取りにくい職場である。パートの職員たちは、休みの希望を巡ってギスギスしたムードを漂わせる。正職員たちは、希望の日に休むことも連休を取ることも難しく、定時より早めに出勤することや、休憩を早めに切り上げることが当たり前になっている。ある日、職員に横柄な程度を取る患者「89」が、若い女性介護士・水野に暴力を振るうという事件が起きる。同室の患者である北口によると、殴るだけではなく、体を触るなどの嫌がらせを毎回しているらしい。「許せない」と興毅は怒りに震える。弱い立場の人間に嫌がらせをする輩には、私も強い嫌悪感がある。怒りに同調するが、数ページ後にその気持ちが凍りつく。興毅は一年以上も女性の体に触れていない。なのに、「89」は毎日のように水野に触れている。彼が「許せない」と思うのは、そのことなのだ。

 興毅は不真面目な職員ではない。元々は、祖母が好きだったことからこの仕事を選んだのだ。別の病室にいる穏やかな女性患者からは慕われている。若くて体格が良く、夜勤も厭わないし休みの希望もないので、頼りにもされている。だが、内側には自分だけが損をしているという思いが溜まっている。以前の職場で出会った恋人には「興毅のためにそこまでせなあかんのかな」と言われ、振られた。体力勝負で収入の良くない仕事には、将来の不安もある。実家には少なくない金額の仕送りをしているのに、無職の妹夫婦が住み始めたため、居場所がない。高齢者の匂い、終わらない仕事、家族との諍い、悪口を言うことが常態化しているパート職員たち……。興毅は、暴れる「89」を力で抑えつけることを覚えてしまう。やがて、「89」に戦争の苦い記憶があり、悪夢にうなされていることに気がつくのだが……。

 心境の変化が緻密に描かれていき、恐ろしいのに最後まで見届けずにはいられない。思考回路が歪んでいる。自分とは無縁の、最低男だ。そう言い切りたいが、難しい。日々のやりきれなさや、身勝手な人間に対する憤りは私の中にもあるものだ。「89」のような人物に対応した時に「バチが当たってしまえ」と心の中で呪ったこともある。どうしようもなく嫌な感情に心を囚われ、コントロールすることが難しいと思ったこともある。

 「仕方がなかった」と興毅と「89」は言う。私も、そう思ったことは一度もないだろうか。同じ立場だったら、どうするだろうか。立場の弱い者を攻撃する傲慢さと残酷さの本質に、真摯に迫った小説だ。著者の今後の活躍に期待している。

(高頭佐和子)

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