カーニヴァルをめぐる、少年の高揚と畏れ
ブラッドベリが1962年に発表したダークファンタジイ長篇。
日本では長らく大久保康雄訳が親しまれてきたが、こんかい、全面的な新訳がなされた。訳者の中村融さんは「ブラッドベリ特有の言葉遣い」を活かし、「できるだけ直訳に近い形にすることを心がけた」そうだ。
この作品では、ブラッドベリは読者の感覚に訴え、イメージを喚起しようと意気込むあまり、いささかわかりにくく、ときに生硬な比喩を重ねているきらいがある。しかし、それも含めて、ほかにはない雰囲気が醸しだされるのだ。また、プロットがはっきりとしているので、修辞の過多も読み進むうえでさほど邪魔になりはしない。
舞台はイリノイ州グリーン・タウン(ブラッドベリの生まれ故郷ウォーキーガンをモデルにした架空の町)。その年のハロウィーンはいつもより早く訪れた。十四歳を目前にしたふたりの少年、ウィル・ハローウェイとジム・ナイトシェイドは、夜中の三時に蒸気オルガンをむせび泣かせながら走ってくる不思議な列車を目撃する。奇怪なカーニヴァルを運んでいるのだ。
この印象的な午前三時の邂逅に先駆けて、いくつかの小さなエピソードが語られる。
まず、大きな革袋をガチャガチャ鳴らしながら、一軒一軒を訪ね歩く避雷針売りの男。彼はウィルとジムに避雷針の表面に刻まれた異国の文字の由来を語る。「風は何語を話すんだい? 嵐の国籍はどこだい? 雨はどの国から来るんだい? 稲妻は何色だい?」。男は嵐が間近に迫っているのを知っているのだ。
風がはるか彼方から何かを運んでいる。理髪店のミスター・クロセッティは息を吸いこんで言う。「コットン・キャンディだ! 何年ぶりだろうな、このにおいを嗅ぐのは」。ジムは年がら年じゅうにおっていると鼻を鳴らすが、ミスター・クロセッティにとっては三十年ぶりに気づいたにおいなのだ。遠いむかし、子どもだったころの記憶。それが呼び覚まされるのは、何かの前ぶれだろうか。
ジムの脚に風に飛ばされてきたビラがまとわりつく。ウィルがそれを引きはがすと、そこには飾り文字で印刷されたカーニヴァルの出し物の数々が。溶岩飲み、宙吊り男、悪魔のギロチン、骸骨男、塵の魔女、エジプトの鏡の迷路、世界一の美女……。ウィルとジムはその言葉だけで、妄想が広がってしまう。
題名どおりの「何かが道をやってくる」。その予感がこの作品のすべてといってよい。
それは運命的な未来へのおののきであり、忘れていた過去への郷愁でもある。やがてカーニヴァルが町へと到来し、少年たちは邪悪な存在と相まみえるのだが、その闘いがはじまったのちも、依然、予感は予感として(つまり期待/不安の感覚として)持続し、作品を貫いて流れる。
ウィルとジムに加え、もうひとりの主人公と言えるのが、ウィルの父である図書館の管理人チャールズ・ハローウェイだ、54歳の彼は自分の衰えを気にかけている。少年たちが思春期の入口に立っているのと対照的だ。この物語では人生の時間が重要なテーマをなし、カーニヴァルの主であるミスター・ダークもそこを人間の弱点として突いてくる。物語の演出としては、乗った者の年齢を自在に操る回転木馬というアイデアが圧倒的だ。
(牧眞司)
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