ふしぎとリアルで新鮮な風景がひろがる〜いけだたかし『旅に出るのは僕じゃない』

観光客があふれる最近の街を見ると、新型コロナウィルス以前を思い出す。一方でその風景を眺める自分はと言えば、旅気分にはまだ遠い。国内もさることながら、勝手がわからない国外で、もしまた感染したら──。コロナ罹患時の症状が重かった身としては、なかなか覚悟が決まらない。戻ったようで戻っていないものは確かにあって、それに気づくたび、にぎわいに取り残された気がしてくる。

そんな悶々とした気持ちを抱えながら本屋へ行くと、店頭で本書の表紙が目に入った。海外の街らしき場所でこちらを振り返る青年は、透明なマスクをしているように見える。帯には「また、旅ができる幸せ。」とあった。その割に、タイトルの意味が真逆なのは……?

著者は1992年に第18回スピリッツ賞で佳作を受賞し、その後『ビッグコミックスピリッツ』にてデビューしたベテランである。2007年に刊行された『ささめきこと』(メディアファクトリー、現KADOKAWA)で、私は著者を知った。その後、『34歳無職さん』(同社)が出た時には、「主人公と同い年!」と一人で盛り上がり、続巻の発売を楽しみにしていた。本書はその後も活躍を続けていた著者の最新作。買わない理由がなかった。

舞台はパンデミックから20年後の、終わりそうで終わらないコロナ禍が続く世界だ。海外旅行は限られた人だけに許された特殊なイベントとなり、一般の人々は主にVR空間内で「商品としてのバカンス」を楽しむことが主流となっていた。主人公の青年はそのVR空間向けに、「旅の体験」をデータとして採集する「無名旅行人」として働いている。彼は世界各地へ旅をして、彼の感じた風や空気、熱や匂いまでをも旅の記憶と共に購入者へ届ける。

1巻での行き先は五か国。ギリシャに始まり、ベトナム、アメリカ、マリ、ブラジルと旅は続く。どの国でも人との出会いがあり、それぞれの生活の苦労と努力、喜びが垣間見える。そうしてつながった人々の物語に、著者は現実世界の「今」をうまく組み込みながら、少し先の未来の可能性を丁寧に描き出す。

何より「無名旅行人」たる彼は、彼の顧客のみならず、読者である私たちも旅へと連れ出してくれる。アテネのパルテノン神殿もハノイの工事風景も、NYの人混みやサハラ砂漠だって、VRでなく紙の上に描かれているというのに、ふしぎとリアルで新鮮だ。特に見開きは圧倒的で、毎度見入ってしまった。ああ、旅先の風景が目に飛び込んでくるのは、そういえばこんな感じだった!

各話の結末にはちょっとした救いもあって、読み終わるたび、胸がじんわりする。どの土地でも生きるのは大変だけれど、でもやっぱり生きていく。旅は誰かの生活の中にあり、私の生活の中にも誰かの旅がある。だからいつかまた海外へ出かけたいと思う日まで、私はきっとそうやって「旅」に触れていくのだろう。

(田中香織)

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