ベルギーの詩人による時間SF

ベルギーの詩人による時間SF

 マルセル・ティリーは1897年生まれのベルギー詩人・小説家。同国フランス語文学の中心として活躍した。『時間への王手(チェック)』は現在から過去への干渉を扱った物語で、38年に原稿は完成していたが、刊行されたのは第二次大戦終結後の45年である。

 時間をテーマにしたSFはH・G・ウエルズ『タイム・マシン』がつとに有名で、38年時点においてもアメリカのジャンルSFでもひとつのカテゴリーをなしていたが、本書はそれらとは違う独特の風合い(哲学と言ってもいい)を持つ。時間をめぐるアイデアのひねりではなく、小説の重層性において、いまなお(それこそ時代を超えて)手に取る価値がある作品だ。傑作である。

 物語がはじまるのは1935年。語り手のギュスターヴ・ディウジュは三十五歳で独身、鉄鋼関連の会社を経営しているが商売はいささか落ち目だ。その彼がふとした気まぐれでベルギー北部の海辺の町オステンドを訪れ、偶然にも学生時代の友人ジュール・アクシダンと再会。アクシダンはディウジュに、イギリスの天才物理学者レスリー・ハーヴィーを紹介する。

 アクシダンとハーヴィーは時間(因果の連鎖)から自由になる方法の模索をつづけ、ハーヴィーはすでにある発明を達成したという。ディウジュはその発明に投機的価値があると直感し、資金提供を買って出る。

 その発明の実験の焦点となるのは、1815年6月にナポレオン率いるフランス軍とイギリス・ネーデルランド・ロシア連合軍およびプロイセン王国軍とが激突した〈ワーテルローの戦い〉だ。ヨーロッパ史ではきわめて重要な転換点である。実際の歴史(こちら側の世界線)では連合軍が勝利したが、ディウジュたちが生きる現実ではフランス軍が勝っている。つまり、この小説はそもそもの設定から、フィリップ・K・ディック『高い城の男』のようなオルタネイト・ヒストリーものなのだ。

 実験にかかわる三人の立場や考えが対照的だ。ハーヴィーは科学的な興味に駆られながら、もういっぽうでは〈ワーテルローの戦い〉で自分の曾祖父が犯した失敗にこだわっている。ディウジュはもともとは俗世的な利益ばかりを考えていたが、実験が進むうちに〈ワーテルローの戦い〉そのものに没入していく。そして、アクシダンは詩人の魂を持つ人物で、時間を機械的に克服することよりも、人間を縛りつけている「原因-結果」概念からの解放を夢みている。

 そして、もうひとり、彼らの実験に思わぬかたちで参加することになるのが、ハーヴィーが暮らす下宿の管理人の娘リザである。彼女は若い未婚の母だったが、その娘を事故で亡くしたことを後悔し、ときおり狂気の発作に陥ってしまう。彼女ほど、過去(原因)という鎖にがんじがらめになった人物はいない。

 ハーヴィーの発明は過去の光景を鮮明に映しだすことに成功していたが、一同はそのうち、過去を変更できないかという発想に取り憑かれるようになる。物語は滑落するように佳境を迎え、そこに四人の登場人物(ディウジュ、アクシダン、ハーヴィー、リザ)が抱えている願望、そして彼らが背負っている来歴(個人的な事情だけでなくベルギーの入り組んだ歴史・地理・言語にもかかわる)が、幾重にも絡んでくる。寂寥感が漂う結末が印象的な傑作。

 日本にいる私たちには馴染みがない部分もあるが、そこは訳者である岩本和子さんの「解説」が丁寧な案内役となる。

(牧眞司)

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