藤岡みなみ|最近のDIYライフについて【思い立ったがDIY吉日】vol.75
文筆家・ラジオパーソナリティの藤岡みなみさんが、モノづくりに対してのあれこれをつづるコラム連載!題字ももちろん本人。可愛くも愉快な世界観には、思わず引き込まれちゃいます。今回は、縄文時代について!
藤岡みなみ
文筆家、タイムトラベル専門書店utouto店主。縄文時代と四川料理が好き。やってみたがり。
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究極のDIY時代、 それは縄文時代
生活に縄文を取り入れませんか?
そろそろまた土偶を作らないといけない。久しぶりにそんな想いが湧き上がってきた。縄文時代を好きになって8年がたつ。2年に一度ほど、土偶を作る機会があった。陶芸のアトリエや、資料館のワークショップ。焼くことはできないが、乾くと固まる粘土を使って自宅で土偶作りを試みたこともある。たまに作っては、「そうそうこれこれ」とあの独特な感覚を思い出すのである。土偶作りでしか得られない実感がそこにはある。
生まれて初めて作った土偶はパンダモチーフ。
秋に、山梨県立美術館で開催されていた縄文展を見に行った。やはり、しみじみといい。土器が、土偶が、語りかけてくる。ふにゃっとしたゆるい土偶はもちろん、とても精巧な土器でも「誰かが作ったんだなぁ」ということがビシバシ伝わってくる。この世の全ての作品が、人の気配を感じさせることができるかといえばきっとそうではない。縄文時代の遺物は、土に手の記憶が宿っている。およそ数千年から1万年の時を経てもなお人の心を動かせるのだから土製品はすごい。メディアとしての息の長さは他の追随を許さない。
今回の縄文展では特に、その文様の豊かさにスポットライトが当てられていたように思う。文様の写真が拡大されて壁に掲示され、まるで縄文の渦巻きの中に迷い込んだような鑑賞体験だった。渦巻きって発明だ。単純に見えるが、実は複雑で美しい。人間の脳みそにも見えるし山菜にも見える。躍動感があり、土が生き物に思えてくる。この、土が生き物に思えるという感覚は、もしかしたら縄文人の感性とそう遠くはないのではという気がしている。
生活の祈りを ものづくりに込める
縄文時代にすっかりハマってしまった私。
縄文土器の好きなところは、それらが圧倒的に生活の道具であることだ。火焔型土器のような華やかで立体的な飾りのついたものでも、煮炊きの跡が認められるという。この見るからに使いにくそうな土器を普段使いにするってどういうつもりだろう。縄文人にとって食とは、生活とは、それくらい特別なものだったのではないかと考えたりする。命をいただく。命懸けで生きる。「土器や土偶は祭りの道具」と教科書で習った気がするが、縄文人にとって日々の暮らし自体が祭りそのものだったのかもしれない。それが私の縄文時代に対する解釈だが、本当のところはわからない。妄想し放題なのも縄文のいいところだ。人の想像力をかき立てるデザインが多い。これがもし合理的だったり写実的な品物だったりしたら、解釈の幅もメッセージの幅も狭まっていただろう。
最近、土偶に向けて祈りたくなる気持ちが痛いほどわかる。疫病がなくなってほしいとか、世界中どこであっても戦争が起きないでほしいとか、もう祈るしかないということばかりだ。自分の非力さを感じ、せめてもの抵抗として生活を慈しむ。生活に祈りを捧げる人間が土偶を作りたくなるのはごく自然なことに思える。
慌ただしい毎日。何も考えない時間が必要だ。
今回は初めて、樹脂粘土での土偶制作を試みた。ちょっと令和っぽくしたかったのだ。完全オリジナルではなく形やエッセンスは国宝の土偶をまねる。縄文時代でも、明らかにお手本がある同じような土偶が多数出土している。誰かの行動をなぞることで、いつもの自分と違う場所に行ける。一人で土偶を作っても心は縄文に旅している。それにしても、粘土をこねるとどうしてこんなに無心になれるんだろう。縄文人は土を触ることや土器を作る時間自体も大切にしていたんじゃないか。没頭、無我の境地。瞑想っぽい。
暮らしの精霊を玄関に飾ってみようと思う。
乾かしてから絵の具で着色してみた。心のままに色をつけたらクリスマスオーナメントのようになった。やたらポップなのは多分、本当はそうありたいという願い。私の生活の精霊たち。縄文時代はきっとまだ続いている。
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