藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 #45 ブエノスアイレスのディエゴは




オンラインのカウンセリング業がようやく軌道に乗ったのは、今年の夏頃だった。私がそういう仕事をしていること自体、誰にも話ていないから、村の半農半X仲間たちが知ったらきっと驚くだろう。
都市を離れ、地方に移住し、自給自足までは無理だとしても、顔だけはそちらに向けて「新しい生活」を目指す人々の一員である私は、オンラインで収入を得ることに対して抵抗はないが、周囲にはそう思わないオフグリッドを夢見る人も多そうで、田舎暮らしの秘訣である「波風をたてないこと」を私は選び、この数年、ひっそりとたった1人でオンラインのビジネスを構築してきたのだった。

 
移住者の多いこの九州のとある村では、住宅や仕事を斡旋する役場の熱心な働きかけが功を奏してか、全国でも有数の半農半Xの村として、その世界では知れ渡っていた。特にコロナ以来、移住者は静かに増え続け、さらに発展する機運に満ちているのだが、実際はそう簡単ではなく、村のサイズにしては、人の数が飽和してるのではないかと、最近囁かれ始めていた。
飽和ということは、簡単に言えば仕事が無くなるということだ。
先進的な新しい暮らし方というのが、期せずして売り出し文句にもなり、この村を訪れる観光客が地味ながらも増え、その経済効果をあてにする向きも増え、カフェやパン屋、レストラン、宿などは、この1年で10軒も増え、移住仲間内にも、なんとなく緊張感が生まれ始めているのは、誰もが感じていた。それは思想と嫉妬の入り混じったものだった。
半農半Xは、生産者であることと、他の仕事、アートなどの表現者であることの両立をイメージする移住者が当初は多かったが、今となっては、都会のビジネスモデルをスケールダウンして、ライバルの少ない村で先行者になることでアドバンテージを得るということに注力する傾向が増していた。
そうなると、有機や自然栽培で作った野菜などの販売ではなく、都会で一時流行ったタピオカドリンクを、田園を見渡せるコンクリート造りのお洒落なカフェで提供するといったちぐはぐな方向性がにわかに浸透し始め、また、そういう店がある程度の売り上げを叩き出すものだから、次第に村には不協和音が響きはじめるのも無理はなかった。 


半農半Xを未来の暮らし方だと考えて、資本主義的な物のあり方や消費を超えていこうとまじめにやったいる家族たちは依然として多く、それは同じ価値観を共有することを繋がりの根っこにするということで、コミューン化が避けられない方向性を持ってもいた。
一方で、都会の暮らしには疲れたが、「新しい生活」という意気込みなどは全く持ち合わせていなく、ただ、のんびり田舎で暮らしたい、便利なものは引き続き利用しながら、断捨離的な発想で持たない暮らしは目指すものの、Amazonでの買い物は継続したいし、NETFLIXだって視聴する、といった感じの家族や単身者も3割ほどはいた。
カフェや飲食店、宿などを始めるのは、後者のタイプであった。
実際には、前者と後者というふうに明確に分断されているわけではなく、その境は緩やかなのだが、そこに生じる経済格差は、やはり無視できないものではあった。
とはいえ、移住を志すということでは趣向の重なる部分がやはり多く、移住をする者たちが本来的に持っている寛容さで、どうにかこうにか村の人間関係が成り立っているのであった。
私が暮らす場所は、そういう場所である。
農的作業はほどほどにしつつ、オンラインビジネスに勤しんでいるというのを敢えて口外する気にならないのは、仕方なく賢明であると思う。
オンラインビジネスを始めるくらいに、オンライン空間に馴染んでいるはずの自分でも、PCの接続を切って、家の窓から見える田舎の風景を目にすると、オンとオフラインの二つの世界をシームレスに俯瞰することが、奇妙に感じることがある。いや、違和感をいつも抱いているというのが本音だ。

 



今週の月曜日のカウンセリングでのことだ。
ブエノスアイレス在住の日本人の男子高校生とのセッションは、その顕著な例だった。
彼は、親の赴任先としてのブエノスアイレスに暮らしているのだが、オンラインで話していると、まるでこの村のどこかに住んでいるかのような親近感を覚えるような子だった。
私のカウンセリングは、基本的に相手任せのもので、1時間の中で、相談や、時に雑談をして過ごすというものだ。それがビジネスになるなんて誰もが疑問に思うはずだが、私にはそれができたのだった。
自分で言うのも気がひけるが、どうやら私には人を安心させる才能があるらしく、それには当然外見も含まれ、さらに声だったり、間の取り方だったり、いろいろな要素がうまく絡み合ってのことだ。
わたしのメニューのひとつにYESの時間というのがあって、それはお互いに相手に10個の誘導質問を与え、それに対して必ずYESと答えるものだった。
「あなたは赤よりも黒が好き?」
「今よりも背が高くなりたい?」
大抵、こういう当たり障りのないものから始まるのだが、次第に心の深くに根ざしている問題に触れてしまうような質問が入り混じってくる。お互いに相手のことをほとんど知らないのに、YESを交換し続けていくうちに、なぜかそうなっていくのだ。これは既存の心理学の療法にあるかどうかは知らないが、あったとしても私が0から思い付いたメソッドだ。
このYES交換を、セッションの序盤と、後半のはじまりくらい、計2度行うのだが、2度目の時には、時に辛いことになることもある。相手の心が大きく動くのもこの2回目の時で、怒りや悲しみなどのネガティブな感情が一気に出てくることもある。
「ブエノスアイレスにずっと住みたい?」
という私の質問に対して、彼は笑顔でYESと答えた。
「日本に早く戻りたい?」
私は、前の質問とは真逆の質問を与え、彼はそれにもYESと笑顔で答えた。


質問が全て終わり、雑談に戻った時に、私は彼にブエノスアイレスと日本のどちらに本当は暮らしたいのかと質問した。これは問い詰める意図はなく、軽い会話であった。
「実際、僕はどこでもいいんです。だって、この世界は、とてつもなく広がっている。だけど、逆に、とてつもなく小さい。こうしてオンラインで繋がっているこの時間、これこそ、ここだけが、僕が生きている時間なので、ブエノスアイエレスとか日本とか、もはや背景でしかないと思うんですよ。こうしている間、弓絵さんは、僕にとってはブエノスアイレスに暮らしているようなもんだし、同時に僕は弓枝さんの村にいる。」
私は、彼の言葉に、いささかの幼稚さと強引さを感じたが、それをしっかり否定する気にはなれなかった。そこには正気があると感じられたからだ。
彼が言うように、オンラインで繋がっていると、それぞれが実際にいる場所は、属性として薄いものになる。ブエノスアイレスと九州の某村は、画面上では消えているといっていい。
オンラインで消えるのは、属性だけではない。
ブエノスアイレスのその高校生の名は、ディエゴ。生粋の日本人である彼の本名は別にあるのだが、彼は自らそう名乗ったきりで、おそらく今後も本名を知ることはないだろう。
彼はディエゴで私は弓絵。
私は自分だけが本名でいることに半裸のような気になるが、まあ別にそれはそれで構わなかった。偽名というのはパーテーションみたいに隠れることができ、彼がそれを必要としているのだ。おそらくそこには心理学的な意味はなく、匿名という保険をかけたかっただけかもしれない。もしくはただの悪戯か。


ディエゴとは初めてのセッションだったが、この種の仕事にありがちな重たさが2人の間には生じなかった。けっして私が高校生の彼を、その年齢差をもとに軽んじたわけではなく、はじめから親和性があって、友人の子供のような近しさがあった。
ディエゴも同じように感じていたのかもしれない。
いわゆる普通のテンションで雑談している最中に、彼は私を恋人のように扱うことがあった。そして時には妹のように、そして時には母のように、扱うのだった。
それはどういうことか言えば、単純に「弓絵はきっと僕の恋人だったことがある」「弓絵はきっと僕の妹なんだよ」とか、「弓絵さんは僕のお母さんだよね、本当は。それをお互い知らないだけなんだよ」などと言うのだった。


 


カウンセリングというのは、目的地がはっきりしていないことが多い。心の病みというのを出発点とするなら、その治癒というのが方向になり、その寛解が目的地なのだろう。だが、私のカウンセリングではそういったルートを描かないことにしていたし、それはHPでも謳っていた。
目的地というのは、言わば近未来の合意点になる。だが、それは時として、個別の独自性を無視した効率的な捌き方になっていくことも多く、ラベルを貼り、整理して、仕分け、過去の事例に照らし合わせて、その唯一性をないがしろにする。私にはそんな感じがしていたので、敢えて目的地を持たないフリートークを重視することにしている。


ディエゴは、モニターのあちらとこちらにある縫い目を、既存の関係性を一気に飛び越えてしまうことで、シームレスな、どんな思考、常識、属性にも縛られずに、その場限りの関係性だけが立ち上がる世界を垣間見せてくれていた。
それはカウンセラーとそのクライアントという力学が働く関係を逆手に取ったやり口とも言えなくもないが、狂気とか精神的なアンバランスとかいうのは、そもそも標準という任意の設定に与しなければ、存在しないことでもある。
私はディエゴとの初めてのセッションを終えて、窓の外の風景に視線を泳がせつつ、この世界がディエゴという存在を含むことに、どこかリアリティを持てず、安心と違和感を同時に感じていた。

 
オンラインでは繋がり、オフにすれば消える。それは電気の話ではなく、やはりあくまでコミュニケーションの危うさと神秘性を伝えているようであった。
繋がり。もしくは、関係、そして絆。私たちが普通名詞として頻繁に口にするそれらは、いったい何を指しているのだろう。
この村には私の友人と知人が半農半Xを志して住み、彼らとは方々で会釈を交わしたりする。ディエゴは遠くブエノスアイレスに住んで、本名すら知らないが、かなり濃い情報量を交換している仲だ。だが、道端で会釈は交わさない。

 
交信。
その本来的な意味と目的を除けば、それはかつて、地球外生物とのコンタクト、もしくは目に見えない霊的な存在とのコミュニケーションを指すような単語だった。つまり遠いどこかの誰かを相手にしていた。
今、私の口をついて出てきた交信というものは、深いコミュニケーション、互いの魂の奥まで届こうとするような深い種類を指す意味を含んで立ち上がった。
言葉といぅのは、時代によって、人によって、コミュニティによって、その意味をずらしていくことがある。今、私は交信という単語を新たに更新したような気がしている。それは実際の距離に縛られない、深くまで達しあった関係を指す。
村には、交信関係の人が2人いる。オンライン上には、それ以上、10人ほどの交信関係の人が存在している。
地に足がつかない場所で、私たちが結びつくのは、より自由になった魂の泳法の果てに現れる揺らぎの確かさだ。それらは蛍の光のように点滅し、私たちの行方を照らしている。
私は、いつも空を見ている。





#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空
#25 縄文の初恋
#26 志織のキャップ
#27 岸を旅する人
#28 うなぎと蕎麦
#29 その部分の皮膚
#30 ZEN-は黒いのか
#31 ブラジリアン柔術
#32 貴様も猫である
#33 君の終わりのはじまり
#34 love is not tourism
#35 モンゴルペルシアネイティブアメリカン
#36 お金が増えるとしたら
#37 0歳の恋人20歳の声
#38 音なき世界
#39 イエローサーブ
#39 カシガリ山 前編
#40 カシガリ山 後編
#41 すずへの旅
#42 イッセイミヤケ
#43 浮遊する僕らは
#43 バターナイフは見つからない


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。

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NeoL/ネオエル

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