組員に自分と息子を刺されても―― 山口組内部を50年取材し続けた記者の渾身の記録
「ヤクザのイメージは?」と問われたら何を思い浮かべるだろうか。「覚せい剤」や「オレオレ詐欺」などの闇社会? または任侠映画に出てくる「義理・人情」に厚い登場人物か――。
今回ご紹介する書籍『喰うか喰われるか 私の山口組体験』(講談社)は、著者の溝口 敦氏が約50年にわたり山口組を取材した記録である。同書を読むことでヤクザに対するイメージが少し変わるかもしれない。
溝口氏はノンフィクション作家であり、ジャーナリストでもある人物。『血と抗争 山口組三代目』(講談社)など、山口組の幹部を取材した記録をもとにした書籍を多数手がけている。
「私は取材することを通して、山口組の幹部たちと接してきたが、取材する者と取材される者との間にある垣根を外そうとはしなかった。
書く者の主観が読者に受け入れられるためには、同時に記された客観的事実で主観が支えられていなければならない」(同書より)
溝口氏が「まえがき」でこう述べているように、同書は山口組内部で起きた出来事を淡々と綴っていくスタイルである。組長やその兄弟、幹部たちの人間性も赤裸々に記しているほか、芸能界・ビジネス業界との関わりについても言及していて興味深い。
第9章「渡辺芳則への嫌がらせ―『食肉の帝王』と『山口組経営学』」では、BSE問題で話題となったハンナン・グループ会長の浅田氏と山口組との関係について。第11章「弘道会最高幹部との対決――『細木数子 魔女の履歴書』」では、山口組を通じて自身の記事掲載を阻止しようとした細木氏の話題が掲載されている。
溝口氏は山口組を題材とした書籍や記事が要因で、組員に刃物で刺された過去も持つ。さらに本人が刺された事件とは別件で自身の息子も刃物で刺されている。
「やり口が陰湿で、暴力団の風上にも置けない。
組長の使用者責任を問う裁判を起こしてやる、と私は思った。私は自分が刺された事件でわかっている。刑事的な突き上げ捜査には限界がある」(同書より)
身内が危険にさらされても取り乱すことなく冷静に対処しているのも印象的だ。同書を読み進めていくと、山口組に対する著者の愛着のようなものが垣間見えてくる点も見逃せない。例えば井上邦雄氏が山口組を離脱して「神戸山口組」を立ち上げた際にはエールを送っている。
「下の人間を収奪して上の人間だけが栄える六代目山口組より神戸山口組の方が上だ、応援しがいがあると考えていた」(同書より)
「仲が良くなったから考えがヤクザ寄りなのでは?」「どうせヤクザからお金をもらっていたんだろう」と勘ぐる人もいるかもしれない。しかし同書を読んでもらえばわかると思うが、溝口氏のヤクザに対する態度はいかなるときもまっすぐで清々しい。記事に抗議してきた恐喝の電話には逆ネジを食わせて叩き切ったり、次期組長候補に対しても「組長の任に耐えられないだろう」などと記事にしてばっさり切り捨てる。
「山口組はご存じの通り日本を代表する暴力団だが、憎むべき敵、壊滅すべきだ、と言い切れない曖昧さを、私は心のうちに感じている。(中略)権力を持って悪いことをする人より、彼らのほうが可愛げもあるし、救いもある。
結局、私自身が山口組やヤクザを好きだったのかもしれない」(同書より)
山口組の人間にも溝口氏の愛着心は伝わっていたのではないか。そうでなければ幹部が取材に応じ、事細かに内部事情を話したりはしないだろう。「ヤクザ」としてではなく「ひとりの人間」として対等に接したからこそ成しえた信頼関係だ。「善か悪か」ではなく「喰うか喰われるか」というタイトルの付け方も遊び心がある。
溝口氏が「絶滅危惧種」と語るように、年々暴力団の数は減少しているそうだ。神戸山口組から離脱し、現在の「絆會」を立ち上げた織田絆誠氏の掲げている命題は「少しでも社会の役に立ち、社会に認められるヤクザ像」であるという。
「ヤクザは何で飯を食ったらいいのか、警察はヤクザが営む正業さえ、暴力団の資金源になるとして阻止している。(中略)警察から『反社会的勢力』といわれないための方法として、ヤクザをやめる以外にどんなやり方があるのか」(同書より)
ヤクザの世界は独特だ。親分・子分の身分制度などファミリーとしての結びつきが強く、見方によっては幕藩体制を想像させる。ヤクザを容認しろというわけではないが、「カタギの世界」が安心安全な人ばかりかといえばそうでもないだろう。世の中を「良い・悪い」だけで区別するのは難しい。その人にとっての正義は別の人から見れば悪にもなる。さまざまな角度から人や事象を判断しなければならないということを同書から教わった。
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。