Lafferty’s Labyrinths(ラファティの伝奇集)
世界のSF界を見わたしても並びたつ者がいない、超然にして飄然たる天才ラファティの、新しい短篇集。収録九作品すべて初訳である。編者であり訳者でもある井上央さんは、SF紹介においてはラファティ一筋に打ちこんできた専門家だ。わたしは崇敬の念をこめひそかに、ひそかにラファティ聖者と呼んでいる。
本書の巻頭を飾るのは、表題作「とうもろこし倉の幽霊」。爺さん犬のシェップが倉に近づかないのは、そこで幽霊を見たことがあるからだ。そんなあやふやな怪談からはじまるフォークロアである。アメリカ中部の片田舎の懐かしい日常(ラファティの原風景のひとつ)のなかに、噛みあっているのかいないのかよくわからない会話がつづき、ユーモアと不穏がくるくると舞う。
「下に隠れたあの人」は、人体消失マジックを売り物にする魔術師ザンベジの物語。あるステージで、思いもよらぬハプニングが起きる。助手であるヴェロニカを消失させ、しかるのちに再出現させる段取りだったのに、まったく別の奇妙な風体の男が出現してしまったのだ。しかし、このマジックが大受けし、ザンベジの人気が急上昇。ひとつ問題なのは、ザンベジ本人でさえ、マジックの仕掛けがわかっていないことだ。ひょんな成功をきっかけとして、善良だった人物が欲望を増大させ、やがては身を滅ぼす……。
こうした展開は、いつの時代にもあてはまる教訓的な寓話だが、もちろん、そこはラファティのこと一筋縄ではいかない。マジックにより出現した奇妙な男はそのまま居座るのだが、その外見も名前もくるくると変わっていく。しゃべることも謎めいている。いったい、こいつは何者だろうか?
「サンペナタス断層崖の縁で」は、崖の近辺の地域で、生物の跳躍的形態変化が頻発する。たとえば、空飛ぶウミガメ。はたまた、片目がけばけばしい紅に、もう片目がミドリ色になったアナコンダ。そして、そうした変化は、どうやら人間にも起こっているらしい。この現象をいぶかしげに調査研究する六人の科学者たちの様子と、刻々と進む時代にやすやすと対応してゆく十二人の子どもたち(八~十九歳)のふるまいとが、絶妙なコントラストをなす。井上さんが「編訳者あとがき」で指摘しているように、ラファティの代表短篇のひとつ「七日間の恐怖」に通じる、痛快なスラップスティック。
「さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう」は、秩序が崩壊した世界で、知性を失わず生きるジュディ・サッチャーと、その娘トランペットと息子グレゴリイの物語。ジュディは”選ばれた十二人”のひとりだ。その十二人は固定されたものではなく、誰かが倒れれば、ふさわしい資質を備えた別な者があらわれ、その立場を引きつぐ。男女の別は関係ない。神のもとで、十二人は両性具有の存在となるのだ。
宗教的表徴に満ちた作品だが、読者に特別な読解を強いるものではなく(もちろん、そうした読解を試みる者には充分な手応えを与えてくれるが)、醜悪な世界のなかで、いかに挫けず、本源的ユーモアを持って生きるかが語られる。おためごかしではない、たくましい希望の作品。
「王様の靴ひも」は、六千人が集ったNRBWA(アメリカ・ゴジュウカラ及び類縁種鳥類観察者連盟)の大会での珍事を描く。テーブルの下で、人間ならざる小さな者たちがイキイキと弾むように会話を繰りひろげているのだが、会場にいる参加者はそのことに気づかない。唯一、ジャスティン・サルディーンをのぞいては。彼が落ちつかない気分でいると、小さな者のひとりが、こう誘いかけてくる。「さあ一緒に十三階へ行きましょうよ」。ところが、この建物(ホテル)には十二階と十四階はあるものの、十三階はないのだ。
作中で「裸の王様」が言及されるのだが、このお伽噺にこめられた教訓をラファティはアクロバティックにひっくり返してしまう。つまり、「王様はちゃんと衣裳を身につけていたのだが、子どもの視線によって裸にされた」という解釈だ。見ることの魔力が主題化される。この物語が、鳥類観察者連盟(”見る者”たち)に設定されているのは、大いなる皮肉だ。
「千と万の泉との情事」は、泉の蒐集家ランウィック・ソルジェンテが主人公。彼はすでに万もの泉をめぐってきたが、まだ完璧な泉には行きあたっていない。この日、彼が出逢ったのは、泉の精クレッセンティア(朗らかで力持ちの女性)と、その夫で自然を研究しているクリーブデンである。奇妙な夫婦との対話を通じて、ランウィックは理想の泉のありかに接近しようとするが……。
彼が希求する泉は、始原の世界にほかならない。それは単純で純粋なものか? それとも、何ひとつ寄せつけない混沌か? 物語が進むにつれて、形而上学、創世神話、民俗学的見識などが、こんこんと湧きあがる。
「チョスキー・ボトム騒動」は、ラファティが得意とする「人類のそばにいる異種族」テーマ。チョスキーの川窪には、”ねじれ足”とも”せっかちののっそり”とも呼ばれる種族が住んでいた。そのうちのひとり、チョーキーは英語を覚えて、人間の高校に通いはじめる。校長は「結局あれは猿なんだろう?」などと言っていたが、なんとチョーキーは試験も優等、スポーツをやっても抜群で、たちまち校内の人気者になった。しかし、チョーキーの活躍を苦々しく思う輩もいて……。チョーキーのとことん超俗的な態度と、それに振りまわされる周囲の者たちのありさまが面白い。
「鳥使い」は、ラファティの人気シリーズ《不純粋科学研究所》の一篇。研究所の個性的な面々が次々と語り手を務める(そのなかにはマシンのエピクトも含まれる)。彼らが注目しているのは、鳥使いの少年だ。年齢は十歳。しかし、幾星霜を経ても変わることのない十歳である。十歳をすぎると、鳥の言葉が話せなくなってしまうからだ。鳥使いは、あらゆる種類の鳥を操って、さまざまなものを創りだす。
鳥使いのキャラクターは、水木しげるのマンガに出てきそうだ。土着的なアンファン・テリブル。エピクトは鳥使いをハックルベリー・フィンだと言う。あるいは「風の又三郎」かもしれない。懐かしいような、空恐ろしいような、不思議な手ざわりの物語。
この短篇集の最後を締めくくる「いばら姫の物語―学術的研究―」は、スケールの大きな奇想と豊穣な知識とが交錯する論文スタイルの作品だ。考察の対象となるのは”眠れる美女”の伝承だが、その起源と伝播をさぐるうちに、ミクロ宇宙にマクロ宇宙が内包される壺中天の世界観が浮上する。
井上さんはこの短篇集を当初、『ラファティの伝奇集』と題するつもりだったそうだが、まさに「いばら姫の物語―学術的研究―」はボルヘスの向こうを張る出来映えの逸品だ。
(牧眞司)
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