大学に行く必要性を改めて考えてみるべきでは 大学は現代をサバイブする武器ではなくなった

2020年1月から開始した新型コロナ騒動だが、この約2年間、大学生はリモート講義を余儀なくされた。私には2020年4月、2021年4月に東京の私立大学に入学した甥が2人いるが、2人とも大学の友人は少なく、先日初めて実際に会った人もいた、と言っていた。人々との出会いはバイト先なのだという。
まったくもってして「主たる所属先である大学には行けないが、サブ的所属先であるバイトには行くことができる」理由が分からない。大学関係者はこの矛盾にぜひとも答えてほしいほか、「施設使用料」について返還した方がいいんじゃないの? とも思う。
そうした大学の状況を考えると、自分からすれば「大学ってもっと自由でテキトーな場所だったのに随分厳格な場所になったものだ」と思う。なんでここまで唯々諾々と大学の言い分に従うのだ。現在40代中盤以降の人からすれば大学なんてものは立て看板に「大学当局の横暴を許してはならない! 学長選挙には学生にも参加させよ!」などとゲバ文字で主張し、大学の言い分に従わなかった雰囲気があるので、正直この2年間の大学生のおとなしさには驚いている。
平成と令和初期の大学のあり方は随分変わったと感じられるが、平成初期の1993年から1997年に大学に通った私が見た当時の大学と大学生像について見てみる。大学の数は1990年は507校だったが、2020年は795校に。1993年の大学進学率は30%台後半だったが、2020年は約60%だ。
我々の世代は第二次ベビーブーム産まれのため、人数は多いのに大学が少なかったため、当然進学率は低い。そして、「早慶上智」や「関関同立」「MARCH」「日東駒専」「大東亜帝国」「駅弁大学(地方の国立大学)」といった言葉は聞いていたものの、現在ネット上で頻繁に書かれる「Fラン大学」という蔑視の言葉は聞いたことがない。「当時からあったよ」という意見もあるかもしれないが、当時は大学に行くだけで「それなりに頭がいいのでは」と思われていたこともあってか私は聞いたことがない。
もちろん、「大学はレジャーランドでありモラトリアム」という論説はあったが、少なくとも「バカ量産装置」などという言われ方はされていなかった。そりゃあ進学率30%台だったらそうなるだろう。
今回主張したいのは、当時のモデルである「大学に入りエリートになる」→「いい会社に入る」→「いい人生を送る」→「幸せに死ぬ」がもはや通用しない、ということだ。何しろ大学進学者の方がマジョリティになっているわけで、稀少性が失われた存在を目指すのはもう意味がないのでは、ということだ。もちろん、いわゆる「上位校」は別である。
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むしろ、職人や専門学校を目指す方がこれからの少子高齢化の時代は自分を守れるのでは、と他人事ながら感じてしまう。現在の40~50代の親は「せめて大学までは行かせてあげたい」と思う場合が多いだろうが、その配慮が実は余計だったのでは? というのはあと10年もすれば分かるだろう。
さて、平成初期の大学に関連し、印象深いのが女子大生が文句を言っていたことである。これは同級生の以下の発言に現れている。
「大学に入ればチヤホヤされると思ったのに、まったくされず、しかも、今は女子高生がチヤホヤされていて損した」
これは一体なにかといえば、1980年代の「女子大生ブーム」に乗れなかったことへの文句だ。川島なお美や宮崎美子に代表されるが、1983年の「オールナイトフジ」(フジテレビ系)や、各種ファッション誌に女子大生が登場し、チヤホヤされた。そして「アッシー君(送り迎えをしてくれるだけの男)」やら「メッシー君(メシをおごってくれるだけの男)」をはべらし、女王然とできるというイメージが女子大生に対してはあった。
しかし、実際私が1993年に大学に入ってみると完全にバブルは崩壊し、そんな文化は終わっていた。その代わり世の中は「女子高生ブーム」だった。彼女達のルーズソックスや厚底サンダルなどがメディアから多数取り上げられ、その斬新なファッションが注目された。さらにマーケティング業界は、「ブームの発端は女子高生から」などと何かと女子高生に謝礼を払ってトレンドのヒアリング座談会をするなどしていたのである。
そんな状況だからこそ、我々世代の女子大生の一部は当時モヤモヤした感覚を抱いていた。今、「女子大生ブーム」も「女子高生ブーム」もなく、あくまでも「書評TikToker」や「勉強を教えてくれるYouTuber」など、単なる属性ではなく「才能+自ら切り拓いた属性」で評価される時代になったのは平成の時代よりもよっぽど健全だと個人的には感じている。一方で漫然と大学に行く意味があるのか? も今後は問われていくことになるだろう。何しろ「パティシエの専門学校」がリモートで全部完結できるワケがなく、彼らは対面・実地にこだわっているのだから。
将来的には総合大学の学生が負けるかもしれない。(文@中川淳一郎 連載「俺の平成史」)
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TABLOとは アメリカが生んだ、偉大な古典ミステリーの大家レイモンド・チャンドラー作品の主人公フィリップ・マーロウの有名なセリフがあります。 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」 人が生きていく上で、「優しさ」こそ最も大切なものであることを端的に表現した言葉です。優しさとは「人を思いやる気持ち」であり「想像力を働かせること」です。弱者の立場に立つ想像力。 「人に優しく」 これは報道する側にも言えることだと思います。 現在、ヘイトニュース、ヘイト発言、フェイクニュースがネットの普及に従い、増大しており、報道関係者の間では深刻な問題となっています。そこには「人に優しく」という考えが存在していません。 なぜ、ヘイト(差別)ニュースがはびこるのか。「相手はどういう感情を抱くのか」という想像力の欠如がなせる業です。ヘイトによって、人は人に憎悪し、戦争が起き、傷ましい結果をもたらし、人類は反省し、「差別をしてはならない」ということを学んだはずです。 しかし、またもヘイトニュースがはびこる世の中になっています。人種差別だけではありません、LGBT差別、女性差別、職業差別等々、依然としてなくなっていないのだな、ということは心ある人ならネットの言論にはびこっていることに気づいているはずです。本サイトはこのヘイトに対して徹頭徹尾、対峙するものです。
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