斬新なアイデアと超絶的な物語表現。生と死をめぐる八篇。
伴名練セレクションによる「再評価されるべき日本SF作家」短篇集。中井紀夫、新城カズマにつづく第三弾は石黒達昌である。
石黒達昌は1980年代末に文芸誌でデビュー、三度の芥川賞候補になった。伴名さんが解説しているとおり、SF界がこの作家を本格的に評価しはじめるのはかなりあとになってからで、90年代末のことである。私が最初にこの作家を知ったのもその時期で、だれかに教えられて作品集『平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,』を手に取ったはずだ。表題作を読んだときの、新鮮な感動は忘れられない。同作品は、この『日本SFの臨界点』にも収められている。
ハネネズミという絶滅種に関する研究の経緯を、横組みで図版を多く含む論述形式でまとめた作品だ。架空論文のスタイルをとった小説はこれが嚆矢ではなく、アイザック・アシモフ「再昇華チオチモリンの吸時性」などの先例がある。しかし、石黒作品の魅力は形式の特異性にあるのではない。文章を読んでみると、通常の意味での学術論文ではなく、ドキュメンタリーもしくはルポルタージュ、いや、むしろ記述者の主観が(さりげなく)織りこまれている点では回想録とさえ言えそうな内容とわかる。冷静に綴られてはいても、奥底に情緒が流れているのだ。ハネネズミの驚くべき生態もさることながら、その解明に人生を託した研究者たちの熱意(もしくは妄執)が軸となる。
作中から引用しよう。
本来自然界には法則も,一貫した仮説に基づくストーリーもありえない.自然界に存在する様々な現象に意味付けをしたり,納得のいくストーリーでそれらを一括するのは,人間の側の都合に過ぎない.法則とはそれがどんなに数式化されていようとも,人間の作った秩序に対する適合にすぎない.そうした視点に立つと,今回の実験に関しても仮説から新たな事実は何一つ生まれていないことに気づく.仮説が新たな現実を作り出す力にはなってはいない.しかし明寺氏が自分の組み立てたストーリーのさらに向こう側に,物語の続きを創作したとしても,このように極めて特異なケースでは,不思議ではないだろう.
ここで「極めて特異なケース」と言われているのは、この実験が「死の機構と意味」と密接にかかわっているからだ。その事実により、研究者は絶対中立・客観的な立場に身を置くことはできない。研究対象が再帰的に自分の生を含んでしまう。
これが石黒作品がたんなる知的興味を超えて、読者に訴求する切実な力である。
画期的な癌治療の発見に関する「希望ホヤ」、人血を養分とする植物を追う「冬至草」、論文捏造事件の顛末を描く「アブサルティに関する評伝」、特異な低体温症の病態をめぐる「雪女」。これらの作品はいずれも、生物学/生態学的アイデアを中核に据え、叙述としては過去のできごとを回顧的に整理したレポートとして、しかし記述者の心情や共感をしのびこませながら語っている。もちろん、視点の取りかた、物語の起伏は、作品それぞれで繊細に調整され、ただの反復ではない。作品を対照させることで、石黒達昌のモチーフが立体的に、より鮮明に広がっていく。
「王様はどのようにして不幸になっていったのか?」は、カフカを思わせるところもある寓話。合理的で賢明な王が治める国が、長くつづく隣国との戦争で領地を押し広げつつある。しかし、戦場から帰還した兵士は「戦争は負けつづけで、国土は縮む一方だ」と証言するのだ。国の中央から遠望する国境と、前線での国境とでは、動きが異なるのか?
「或る一日」は、深刻な汚染に曝された地域の惨状が、ボランティアとして赴いた医師の目で淡々と語られる。語り手は冷酷な人間ではない(そんな人間がボランティアに志願するはずはない)。常態化した苦痛と死によって、感情が停止してしまうのだ。「地獄と見まごうばかり」という表現すら追いつかない。地上だからこその冷たさである。目を背けることができない一篇。
「ALICE」は、不可解な殺人を犯したAliceと彼女の精神鑑定をおこなったalice(同名だが区別のため大文字・小文字で記されている)の物語。表記・表象も構成も非常に複雑で、あえて言えば、夢野久作『ドグラ・マグラ』を圧縮し、現代SFのギミックを凝らした作品といったところ。そもそもの殺人事件には、物理の統一理論までかかわってくるのだ。作中に夥しいアリュージョン(引用/手がかり)がバラまかれており、たとえば施設のネーミングが脳のブローカ野とウェルニッケ野にちなむことを、伴名さんが解説で指摘している。私が気づいたのは、aliceの治療──そう彼女は精神医だったがAliceとかかわることで精神を失調して自らも精神病者になってしまうのだ──を担当する医師の名C57/blackが、実験用マウスの品種から取られていることだ。しかし、こうした断片を統一的につなげられるのだろうか? もしかすると、キャロル『不思議の国のアリス』の棋譜のような解読格子がどこかに(作者の頭のなかに?)あるのかもしれないが、とても一筋縄ではいきそうもない。とびっきりの異色作だ。
以上、全八篇。
(牧眞司)
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