チベット語のススメ
大学の三年生になったときに、チベット語を習得しながらチベットの文化や歴史を学ぶという事例研究のゼミが始まりました。ケルサン・タウワ先生を講師として大学に毎週お招きしてチベット語の手ほどきを受けました。ケルサン先生は、当時は早稲田大学の正門のすぐ近くに「カワチェン」というチベット関係書籍を扱う小さな本屋さんを構えていいらっしゃいました。
チベット文字は、インドのデヴァナガリ文字を、中央チベット的な乾いた美的感覚で整形した表音文字です。
という30種類の基字に、
のように四つの母音記号をつけて五種類の母音を表します。さらに、この文字同士を、頭字、足字、前置字、後置字、再後置字を組み合わせて発音を表します。
例えばチベット語で数字の8を表す単語は、
と書くのですが、アルファベットに転写すると brgyad となり、現代のチベット語では、ギェーッという発音になります。東チベットでは、ジェーッというふうになります。綴り通りの古い発音が残っているラダックなどの地方では、ブルギェッドに近いような発音になるようです。とても複雑ですから、基字を覚えてから、文字の組み合わせと出来上がる音のパターンを覚えるというだけでも、2〜3ヶ月くらいかかるかもしれません。声を出しながら繰り返しノートに書くというような、子供の頃に文字を覚えたのと同じやり方で覚えるしかないようです。
チベット人は日常生活の中でも文字をとても大切にします。文字の書かれたものは、仏典はもちろん、新聞やメモ書きであっても床に置いたり跨いだりは決してしませんし、もしも不要になったとしても丁寧に燃やして処分します。僕の部屋などは、あちこちに研究資料が散乱していたりしますから、部屋にやってきたラマに呆れられることもあります。そのように文字を大切にしなければならない理由を尋ねると、少し仏教の素養のある人なら「それは、お釈迦様が、私の教えは濁世には文字の中にしか残らないから、文字を私だと思って大切にしてくれと言い残したからさ」と答えます。それは確かにそうなのですが、僕には少し教科書的すぎる回答だとも思えるのです。チベット人が経典を収めた大きなマニ車を回しているのを見たことのある人も多いでしょう。また、仏塔や仏像を作る時には、中に陀羅尼を書いた巻紙や経典を沢山詰め込みます。そのようにお経そのものを崇拝の対象として扱うことには、仏教が危機にさらされた時にも教えが復活するように、という願いも込められているのでしょうが、文字そのものに神秘的な力が宿っていると認識されているようにも見受けられます。チベット仏教の伝わる地域では、よく真言を旗に刷ったり石に刻んだりしたものが飾られていますが、そこには、雨風にさらされて文字が消えて行くとともに、捧げた祈りが神仏に届くという素朴な感覚が根底にあるのです。
アジアの古典的な学問おいては、意味は全く分からなくても、まず声を出してすらすらと朗読し、暗唱するという訓練を長い期間かけて繰り返していきます。チベットのお寺でも、入門したばかりのお坊さんたちが毎日何年間もやるのは、簡単なお説法を聞く以外には、習字と読経の練習だけなのです。読んでいるお経自体は、非常に深遠な内容を語っているものなのですが、小坊主さん達は、その意味を全く知らずに読み上げたり書き写したりしているのです。文字が意味するところよりも、形と音をまず徹底的に身に付けるということをやらせるのです。それこそがお経の中身を学ぶ基礎だと考えられているのです。これを若い時に身に付けておくと、あとで密教の修行をするようになったときに、種字を観想しながら真言を唱えるような瞑想においては、文字の形や音に意識を集中する能力として大きく役立ちます。
文字を読むということについては、こんな話があります。ある家の仏壇に、お経が収めてあるのだけれど、それを読める人がいない。やっとのことで隣の村から字が読めるというお坊さんを連れてきてお経を上げてくれとたのんだそうです。でも、そのお坊さんは左から右へと呼んでいくお経を、左から右へ、右から左へ、と交互に読んで行ったんだそうです。それを不審に思った家の主人が、どうして折り返しながらも読んでるんですか?と聞いたところ、「なんだって?手ぶらで帰れってのかい?」といったそうで。このような素朴な味わいの小咄が成立する背景には、文字を知っているということの第一義は、声を出して読める、ということであり、それ自体が大変ありがたいことだったことが伺われます。
チベット語を学び始めるとすぐに、日常生活の会話の中には仏教用語が浸透していることに気がつきます。例えば「ありがとう」は「トクジェ・チェ(ご慈悲)」といいますし、「あぁ、かわいそうに」というように「ニンジェ(慈しみ)」といったり、「こんにちは」や「おめでとう」を「タシ・デレク(吉祥がありますように)」と表したりします。このようなことは日本語の中でもいくらか起こっているのですが、日本の例と比べると、チベットの日常会話に浸透した仏教用語は、もともとの意味からあまり遠く離れずに残っているような印象をうけます。それに、人の名前も仏教用語から付けられている人が多いことが分かります。サンギェ(仏陀)さん、ドルジェ(金剛)さん、ソナム(功徳)さん、タシ(吉祥)さん、デチェン(大楽)さんなどなど。
このあたりまで勉強するだけで、チベット語のカタカナの固有名詞などが、本来はどのような発音なのか、どのような意味なのか、ということが少しずつ分かってくるようになりますから、チベットやヒマラヤ周辺地域の歴史や文化について書かれた本を読むのが楽しくなってくると思います。それに、簡単なお祈りの文句を覚えたりするのも楽しいでしょう。本格的にチベット語を話せるようになろうとか、ラマのチベット語での法話が理解できるようになろう、という程の目標を持っていなくても、文化や歴史に触れる第一歩として文字と発音を覚えてみるというのもいいことなのではないかと思います。
僕が最初にチベット語の手ほどきを受けた「カワチェン」のケルサン・タウワ先生が、年に二回、チベット語の初心者向け集中講座を開いています。文字と発音、習字、初歩的な会話などを習うことができます。次回は、ゴールデン・ウィークに行われる予定です。
※講義の詳細はカワチェンのウェブサイトでご確認ください。
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