悪くいうメンションが20%を超えないネットライフを心がける(シロクマの屑籠)

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今回はシロクマさんのブログ『シロクマの屑籠』からご寄稿いただきました。

悪くいうメンションが20%を超えないネットライフを心がける(シロクマの屑籠)

(※画像は悪くいうメンションが高まりすぎたネットライフのイメージです)

 

これから書くことは、以前にも書いたかもしれないし、20%という数字も思いつきのものだ。厳しい基準を好む人は10%で、緩い基準がいい人は30%にしてもいいかもしれない。
 
twitterやはてなブックマークやヤフーニュースのコメント欄では、誰かを悪くいうメンションをたくさん見かける。そのなかには的を射た批判と言って良いものもあれば、感情的な罵倒と言って良いものもある。当否はともかく、そういう誰かを悪く言うメンションや、誰かにネガティブな評価を表明するメンションが現在のオンライン世界には溢れている※1。

※1:実のところ、オフライン世界にも溢れている

2010年代のいつ頃からか、そういう悪くいうメンションを少しずつ避けるようになっていった。全部遮断するわけではないし、私自身がそういうメンションをすることがなくなったわけでもない。でも、自分のメンションのうち(誰か・何かを)悪くいうメンションは少なめのほうがいいし、自分のタイムラインもそういうメンションが少なめのほうがいい。また、当否にかかわらず、そうやって誰かや何かを悪くいうメンションが猛烈に集まっている場所は長い時間みつめないほうがいい……と心がけるようになっている。
 
そうする理由は、おもに2つある。
 
ひとつは他人からの心証が悪くならないようにするため。
何かを悪くいうメンションが多めの人は、険しい人にみえてしまう。イライラしている人、怒っている人にみえるかもしれない。現代社会にはイライラしている人や怒っている人は居場所があまりなく、そういう人は評価も低くなりがち*1 なので、心証を悪くしないためには、そういう見かけを避けるに越したことはない。また、はてな匿名ダイアリーの人気記事によれば、いまどきの若い人たちは批判をとかく悪いものと捉えている*2 という。それなら的を射た批判も含めて、悪くいうメンションは必要最小限にするに越したことはないだろう。

*1:「現代社会には、イライラした人間の居場所が無いとわかった」2017年12月17日 『シロクマの屑籠』
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20171217/1513511383

*2:「はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない 」2017年06月24日 『はてな匿名ダイアリー』
https://anond.hatelabo.jp/20170624022831

 
もうひとつは、自分自身の心構えが険しくならないようにするためだ。
理由としてはこちらのほうが重要だと思う。
 
誰かのことを悪くいうメンションを呼吸するように述べていると、他人を批判・避難・断罪するのが当たり前の人間ができあがっていく。悪くいうメンションをズラズラと書き続けている人は、そのように自分を自己改造し続けている、と言ってもおかしくない。それがたとえ的を射た批判や客観的なエビデンスに基づいたものだったとしても、とにかく誰か・何かを悪くいうメンションを高濃度に吐き続けているということ自体が、私たちの心構えを険しくしてしまう、そのことをもっと怖がっておいてもいいんじゃないかと思うのだ。
 
誰かや何かを罰すること・裁くこと・けなすこと・低く評価することに慣れてしまってもなお、他罰的にならず、内省的であり続けるのは簡単ではない。これまでのインターネットの風景を振り返るに、そうやって悪鬼羅刹になっていった人は多く、内省的であり続けた人は少なかった。この場合、メンションがファクトかフェイクかはたいした問題ではない。どれほど正しい批判や非難だったとしても、そういうことをたくさんメンションし続けること自体をひとつのリスクと考えるべきではないだろうか。
 
 
また、誰かのことを悪くいうメンションを読みまくるのも危ない気がしてきた。たとえば世の中には批判されて当然の出来事や、断罪されてもおかしくない行動がある。いまどきのインターネットではそうした出来事や行動に悪くいうメンションが殺到するし、批判や断罪が的を射ていることも多い。
 
しかし、批判や断罪そのものが間違っていなくても、悪くいうメンションを読み、その姿勢に慣れること自体が私たちの心構えを(攻撃的・批判的に)変えてしまわないだろうか。批判・非難・断罪・あてこすり・皮肉──そういったメンションが渦巻く空間に長く滞在していれば、そういうメンションに慣れてしまうし、そういうメンションへの抵抗がなくなっていく。悪くいうメンションを(自分自身が)呼吸するように吐く前段階として、悪くいうメンションが瘴気のように存在している空間に慣れてしまう段階があるように思う。
 
もちろん、空間に感化される度合いは人による。意志の強弱にもよるだろうし、ほかの社会活動やコミュニケーションをどれぐらい持っているかにもよるだろう。たとえば日常生活の社会活動やコミュニケーションが乏しく、意志の弱い状態にある人が悪くいうメンションが瘴気のようにたちこめるネットコミュニティを覗き続けていれば、ものの数か月程度で染まってしまうだろう。
 
じゃあ、意志が強くて社会活動やコミュニケーションに恵まれている人なら大丈夫かといったら、それはわからない。そういう人だって一時的に意志が弱くなることはあり得るし、数か月ではなく数年~十数年といった長さで悪くいうメンションを凝視し続けていれば、多かれ少なかれの影響は受けるように思われるからだ。
  

「悪くいうメンションを20%以下に調整する」というリテラシー

 
こうした、悪くいうメンション(を見たり述べたりする)に感化されるリスクは、意識的な抵抗が簡単ではない。なぜなら人間は、自分が慣れ親しんだ空間やコミュニティの通念や慣習に気付かぬうちに慣れてしまいがちな生き物だからだ。この問題については、自分の意志を信じるより、自分の意志は信じられない、という前提で考えたほうがたぶん安全だ。
 
対策の例を挙げるとしたら、たぶんtwitterが一番わかりやすい。
 
24時間365日他人や何かを批判しているアカウントに遭遇したら、そのようなアカウントのメンションを読み過ぎないよう、twitterの仕組みを使ったほうがいい。twitterにはフォロー・アンフォロー・ミュート・ブロック・リストなどの機能があるから、悪くいうメンションが視界に入る度合いをコントロールするのは難しくない。キチンとタイムラインやリストを構築すれば「批判が的を射ていることが多くて、面白くて惜しいアカウント」を取りこぼさず、タイムラインの悪くいうメンション率を20%以下に維持することも可能だ。10%以下だってそれほど難しくないだろう。
 
こうした対策をtwitterに限らずあらゆるメディアに適用すれば、悪くいうメンションに感化される度合いを減らせる。今日日は悪くいうメンションがあっちこっちに溢れているので、そうしたものが目に入る頻度や程度をうまくコントロールし、それらに感化され過ぎないよう意識しておくことも、いわば、リテラシーの一部なんじゃないかと思う。「良いタイムラインで、良いインターネットを」ってやつだ。

 

執筆: この記事はシロクマさんのブログ『シロクマの屑籠』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2021年5月20日時点のものです。

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