父親になっていく青年の変化〜オウラヴスドッティル『花の子ども』
主人公のアルンリョウトゥル(ロッビ)は22歳の青年。母さんが事故で亡くなって以来、父さんとふたり暮らしだ。双子の弟であるヨセフは自閉症で、ふだんは施設にいる。そしてロッビには、一夜をともにした相手・アンナとの間に赤ん坊がいる。ロッビたちは結婚しておらず、ふたりの娘であるフロウラ・ソウルはアンナと暮らす。
読み始めてしばらくは、現実感のないおとぎ話を読んでいるような気持ち。ロッビは決して冷たいわけではなく、むしろ家族に対する思いやりに満ちたタイプだろう。思いがけずできた娘に対しても、父親としての責任を果たそうという気概が感じられる。にもかかわらず感情の起伏があまり感じられないのは、万事において当事者ならではの驚きや焦りや不安といったものが希薄にみえるからかもしれない。俗に言う”子どもが子どもを産んだ”的な。
ロッビの感情が比較的大きく動くように見受けられるのは、植物あるいは亡くなった母親のことを考えるとき。母の遺した「八弁のバラ」を携えて、ロッビは旅に出る。たどり着いたのは、世界でも名高いバラ園のひとつを有する修道院。手入れが不十分で荒れてしまっていたさまざまな種類のバラを、ロッビはいきいきとよみがえらせていく。文章だけでも、何百種類にも及ぶバラの美しさが目に浮かぶようだ。そんなある日、アンナから連絡が入り、「娘を預かってほしい」と頼まれる。外国の大学院で人類遺伝学を学ぶために、論文を書いたり面接を受けたりする時間が必要になったからだという。
思いがけず始まった3人での生活(アンナが論文を書き上げるまでの期間限定という約束で)。フロウラ・ソウルはほんとうにかわいらしく手のかからない子どもで、出会う人みんなを笑顔にしていく。これまで身近とは言いがたかった娘の存在によって、ロッビにも父親としての感情が改めて芽生える。また、ロッビとアンナの関係性にも変化が生じ…。
”花の子ども”とは誰のことだろうか。まずはフロウラ・ソウルのことを指しているのは間違いないだろう。しかし、同時にロッビ自身やヨセフも”花の子ども”なのではないかと思う。ふたりとも、愛情をかけて育てられた植物のようにまっすぐ健やかに成長している。物語の前半で父さんがロッビに対して、お金の心配をしたり電話越しにもあれこれ世話を焼く様子は、過保護ぎみではあるものの微笑ましい。実際ロッビの方でも、事あるごとに父さんを頼りにしている様子だったし、母さんが愛情深い親であったことも随所で触れられている。
けれども、フロウラ・ソウルと暮らすようになってから、ロッビは”花の子ども”から”父親”へとシフトチェンジした感がある。それまでのロッビは、「八弁のバラ」をはじめとしてほぼ植物にばかり関心が向いていたが、我が子という自分が見守り育てていく存在を得たことで気持ちに変化が生じた。大多数の親にとって、我が子は”花の子ども”だと思いたい。けれども世の中にはせっかく愛おしむべき子どもを得ても、まったく変わらない親も、時には負の変化を遂げる親もいる。それを思えば、ロッビの父親としてのめざましい成長は頼もしい。それだけにラストには少々意表を突かれたが、真の意味での誠実さを身につけたロッビなら、彼らにとって最もよい形を見つけていけるものと期待している。
本書は、現代アイスランド文学を代表する作家であるオイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティルによって書かれた作品。しかしながら、作中の舞台がどこであるかは明らかにされていない。アイスランド関連の私の知識が極端に不足していることも、無国籍風なイメージに拍車をかけた感がある(アイスランドについて自力で思い出せたのは、”ビョークの出身地”であることのみだった)。とはいえ、アイスランドという国の認知度がさほど高くないのも否定できないところだろう。神崎朗子氏による訳者あとがきやアイスランド文学者・朱位昌併氏による解説(「八弁のバラ」に関する記述もあり)も、ぜひともあわせてお読みいただければと思う。
どこの国の話と明記されておらずとも、例えば父親と母親のどちらかに負担が偏ることなく子育てをしようと主人公たちが自然に考える姿勢など、ジェンダーの意識が高い国の作家によって書かれたのと無関係ではないに違いない(アイスランドは、2020年ジェンダーギャップ指数において11年連続1位だそう。ちなみに日本は121位)。”男なら大工仕事や機械に強くて当たり前”的な先入観にとらわれる必要はないし、花は女性に限らず誰の目にも美しく映る。
(松井ゆかり)
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