王力雄「炎の遺言――なぜチベット人は焼身するのか?」 後半

王力雄「炎の遺言――なぜチベット人は焼身するのか?」 後半

今回は中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム『KINBRICKS NOW』からご寄稿いただきました。
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王力雄「炎の遺言――なぜチベット人は焼身するのか?」 後半

本記事は「王力雄「炎の遺言――なぜチベット人は焼身するのか?」(前編)の後編です。

「王力雄「炎の遺言――なぜチベット人は焼身するのか?」 前半」 2013年01月12日 『ガジェット通信』
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王力雄「炎の遺言――なぜチベット人は焼身するのか?」 後半

*写真はダライ・ラマ法王と王力雄さん。
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ダライ・ラマの成功と失敗

長い間、チベット問題は進展が得られていない。希望をずっと外部世界に託してきたことをチベット自身が反省している。チベット本土は国外のチベット社会に希望を託した。国外のチベット社会はまず国際社会に託し、後になって中国政府に託した。国際社会の圧力を利用し、中国政府に譲歩を迫るのが一貫した基本路線だった。

国際社会でダライ・ラマは大きな成功を勝ち取った。欧米の市民はほぼ一辺倒にチベットに同情し、ダライ・ラマは誰もが知る世界的なスターになった。しかし、中国政府に圧力を加えるという点では、国際社会はもう限界に来ており、これ以上あてにするのは難しい。中国は差し迫って西側の援助を必要としていた1980年代であっても、チベット問題について少しの譲歩も見せたことはない。既に台頭を始めた今日、世界が中国の譲歩を引き出せるなどと期待しても、ますます見通しは立たないのではないだろうか。

中国政府は2002年から2008年にかけ、ダライ・ラマの特使との会談を進めた。それは初めから北京五輪のために設けられた宣伝活動だったが、亡命政府にとってはようやく訪れた機会であり、実質的な進展が切実に望まれた。当時、本土のチベット人はずっと楽観的で、我慢強く待ち続けていた。北京五輪が近づいてきた2008年3月10日、ダライ・ラマは蜂起記念日の恒例のスピーチでこう明らかにした。

「私の代表は2002年以降、特定の問題について、中国の関係部門と前後6回の会談を開いた。(中略)だが残念なことに、基本的な問題では実質的な成果は何も得られなかったし、この数年、本土のチベット人に対する残酷な鎮圧はますますひどくなっている」

このタイミングでダライ・ラマが公表したのは、五輪前に中国への国際的な圧力を強める最後のチャンスになると期待したからだろう。しかし、共産党を真に理解しているのなら、たとえ北京五輪を開かないことになったとしても、彼らがチベット問題で譲歩することはないと分かるはずだ。予想通り、国際社会のその後の動きは全く効果がなく、ボイコット運動は消え、最も強硬的な態度を見せていたフランスも最終的には負けを認めた。これらの事実が容赦なく証明しているのは、国際社会を通じて中国に譲歩を迫るという亡命政府の長年の路線が完全に無効だったということだ。

ダライ・ラマの言葉が目覚めさせたチベット人

一方、ダライ・ラマのスピーチは本土のチベット人を目覚めさせた。彼らはいつまでも待ち続けるうちに、我慢の限界に近づいていた。この間、パンチェン・ラマは捕われ、カルマパはチベット本土を離れ、ダライ・ラマは攻撃され続けていた。そして最後に待ち受けていたのは、「実質的な成果は何も得られなかった」という結末だ。

ダライ・ラマのスピーチを知ったラサ、セラ僧院の僧侶は「私たちが立ち上がらなければいけない」と考えた。ラサの街頭に駆け出して雪山獅子旗を掲げ、スローガンを叫んだ。それは2008年にチベット全土に及んだ抗議運動の最初の叫びだった。3月10日午後、デプン僧院の数百人の僧侶が山を降りて抗議し、中国の言う「3・14事件」がまたたく間に広がっていった。

ウーセルの意見によれば、現在の焼身抗議運動はまさしく2008年の抗議の延長線上にある。つまり、「私たちが立ち上がらなければいけない」という勇敢な僧侶の言葉が継続しているのだ。

焼身運動の始まり

組織もなく、資源もない民衆にできることは決して多くない。考えられるのは2008年のような街頭の抗議デモだ。民心が動き、呼びかけに呼応し、集まった人々が気勢を上げる。小規模な社会であれば、抗議者の集団は十分に大きいし、変革を促すかもしれない。しかし、規模の大きい社会に身を置く少数民族にとって、そんな可能性がないのは明らかだ。1989年に数千数万の漢人が中国各地の街頭に飛び出したが、流血をもいとわない専制政権に全て鎮圧された。人口では漢人の端数でしかないチベット人がどうして例外になれるだろう?

兵が迫り、軍警が密集し、所構わず人々が逮捕される時、集団行動はますます難しくなる。「立ち上がらなければいけない」という言葉は個人の行為としてのみ実行できる。滄海の一粟である個人はどのようにして巨大な政権に立ち向かうのか?2008年のチベット抗議が鎮圧された後、少なからぬチベット人が一人で路上に立ち、スローガンを叫んでビラをまき、最後には音もなくこの世から姿を消した。ばらばらの個人はどうすればこの絶望的埋没状況から踏み出せるのか?それには、より激しさを増したやり方しかない。ネット作家グドゥップが「平和的な闘争をいっそう激烈にする」と遺言に書いたように。焼身はまさに、個人の取れる最も激烈な手段だ。

確かに焼身ははっきりと出現してきた。それぞれの命の燃焼は全世界に目撃され、報道され、記され、祈られ、慰められ、広く伝えられている。それによって、焼身は個人の行動で最も有効な手段であるとほかのチベット人は考えるようになる。彼らは一歩進んで見習い、より激しい焼身運動を形作っていく。

貴重な命だからこその焼身

2008年のチベット抗議が僧侶から始まったように、焼身運動の先頭に立ったのも僧侶だった。キルティ僧院のタベーが2009年2月に本土で最初の焼身者になって、最初の12人の焼身者は全員が僧侶だ(2008年の抗議運動後、当局に僧院を追い出された元僧侶も含める)。2011年12月になると、俗人で最初の焼身者が現れた。2012年の第1四半期の焼身者20人には、15人の僧侶がいる。第2、3四半期では俗人が中心になった。第4四半期の70日まででは、焼身者50人のうち俗人が43人もいる。

焼身運動に飛び込む一般のチベット人を理解しようとする時、私はいつもチベット人女性に聞いた話を思い出す。彼女は「民族のために何かをする能力はほかにないから、私はたくさん子供を生もうと思ってるの」と話した。焼身者の遺言の中にも、これに似た心情は見られる。遊牧民テンジン・ケドゥップとンガワン・ノルペルは遺言にこう記した。「僕ら二人について言えば、チベットの宗教や文化で力になれるだけの能力はないし、経済的にチベット人を助けられる能力もない。だから(中略)焼身というやり方を選びます」

61歳のドゥンドゥップは僧侶や若いチベット人に対し、焼身を選ぶな、命を大切にして民族の未来のために努力、貢献しろと何度も呼びかけ、高齢世代が焼身するべきだとの考えを示した。財産や学識がなくても、焼身行為で民衆を駆り立て、当局を動かし、影響を与えられると知れば、一般のチベット人は勇気を奮い起こして実行する可能性がある。

カルマパはこの時、命は尊いのだから焼身するなと呼びかけたが、何の効果もなかった。これは全く不思議ではない。なぜなら、焼身者はまさに、最も尊い命をささげたいのだから。ウーセルやアジャ・リンポチェ、詩人カデ・ツェランは「生きてこそ現実を変えられる」と呼びかけたが、有効であるはずがない。なぜなら、焼身者はまさに、生きて何ができるのかが分かっていないのだから。そして、少なくとも焼身は静寂を打ち破れるのだから。焼身以外に何ができるのかを彼ら勇敢なチベット人に伝えなければならない。ただ生きて傍観させ、むなしく待たせるのではなく。

焼身はチベットの指導者に対する圧力でもある

焼身の奥に隠された意味を掘り起こすのは、チベット人の内部で進められるべき作業だろうから、次の議論は少し落ち着かない。しかし、命が次々と燃えるのを目の当たりにしては、そんな懸念には構っていられない。

戦場にいるのと同じで、敵による殺人を非難するのは間違ってはいないが、かえって無駄なことになる。勝利を収めたいなら、自分たちをチェックし、改善する方がいい。もし圧迫者を責めるだけで終わっているのなら、焼身の犠牲はただちに浪費になる。本土のチベット人は亡命政府に大きな期待を抱いたり、次々と率先して焼身に走ったりしてきた。亡命政府はそこから少なくとも何かを見出すべきだ。自分たちの以前の路線を改めて振り返ってみる価値はある。

旧世代の亡命チベット社会の指導者が歩いてきた道のりは、その時代に必要な模索であり、避けて通れなかったものだと仮定しよう。だが、そうだとしても、本土で今起きている焼身は、「来た道を戻るな」と新しい指導者に命を燃やして呼びかけているのだ。

目下のところ、チベットの新しい指導者がこの点を理解している形跡はない。「中国政府と交渉して問題を解決する自信はあるか」と「亜州週刊」に問われ、首相のロブサン・センゲは「私個人にはもちろん自信がある。新しい気風の人物が深く考え、納得するのなら、チベット問題はすぐに解決できると中国のある知識人が話していた。私もそう考えている」と答えた。1980年代止まりのこうした意見を聞くと、時間を後戻りしたかのように感じる。

ロブサン・センゲは就任後に各国を訪れ、政界の要人に会い、メディアに出演し、会合に出席し、各種活動を展開した。これは完全に、国際的な圧力を勝ち取って中国政府に譲歩を迫るという古い手段の繰り返しだ。ダライ・ラマは既にこの路線を走り尽くした。1度2度ならともかく、3度繰り返してはならない。だが、1989年と2008年の2度の行き詰まりを経験していながらも、亡命政府はまた繰り返しに入っていくのを止められないでいる。

焼身に期待する人々の間違い

しかし、本土の焼身運動が新しい契機になったのかもしれない。国外のウェブサイトで、維譲(ウラン?元のチベット名は不明、以下漢字表記のまま)を名乗るチベット人が次のように書いた。

「同胞の体は無駄に燃えているわけではない。アムド一帯で最近、数千人規模の抵抗の戦いが何度も起きている。これは同胞たちの犠牲の結果だ。(中略)その日はいつか来る。2008年の抵抗の嵐は必ずまたチベットを席巻すると僕は信じている」。だから彼は、焼身をやめるよう求めるチベット人内部の呼びかけを批判し、こう書く。「なんておかしな振る舞いだろう。もし呼びかけが成功すれば、これ以前の同胞は無駄に犠牲になったことになるし、僕たちの戦いもぴたりと止まるだろう」

維譲が代表する考え方には憂慮させられる。焼身が目標達成の手段とされ、本土のチベット人の焼身は多ければ多いほどいいのだと自然に期待をかけるようになるだろう。ひとまず道徳的な是非は指摘しない(維譲は既に「道徳的な高み」への軽蔑を表明しており、目的のためには手段を選ばないようだ)。だが、たとえ政治的な成否からのみ論じたとしても、焼身は目標達成の助けにはならない。仮に2008年のような抗議運動を起こせたとしても(当局の圧政でとても難しくなっているが)、その後はどうなる?2008年抗議は鎮圧されたのだから、次回は違う結末があるとでも言うのか?

それでも、目的を全てと捉える政治的な人物は、再び鎮圧が起きるよう心から期待しているのかもしれない。鎮圧は国際的な注目を集め、流れる血が多ければ多いほど、中国政府に譲歩を迫る圧力は大きくなる。しかし、これはまた最初の論証に戻る。焼身はただ別の誘因になるだけで、異なる結果はあり得ない。専制権力は焼身を気にかけないし、流血の鎮圧も恐れない。国際社会はかつて、天安門事件のために中国への態度を変えることはなかったし、現在もチベットのために中国と反目することはあり得ない。現実に起きた全ての出来事は、あらゆる幻想が盲目的でしかないのだと実証している。

進むべき道を知れば焼身はなくなる

チベット問題は焼身者の増加によって世界の高い関心を集めている。一方、各国政府は中国の機嫌を損ねないようにしつつ、より亡命政府を支持し、チベット問題に注目するといったやり方で良心のバランスを取り、自国民を落ち着かせるだろう。これによるメリットはもちろんチベット本土の外だけにある。何もない状態に比べれば、収穫があるのはましだ。だが、この程度のメリットのために、国外のチベット人が本土の同胞に焼身を続けるよう望むとはとても信じられない。

チベットは苦境を突破する必要がある。チベットの自由と平和に関する事業を国外のチベット人が引き受けている現状を変え、本土の数百万人が主体となり、ともに自由と和解に関わっていく必要がある。進むべき道を知れば、本土のチベット人は希望に満ちあふれた未来へと生きて突き進み、二度と焼身の烈火に飛び込むことはないだろう。

執筆: この記事は中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム『KINBRICKS NOW』からご寄稿いただきました。

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