『千日の瑠璃』443日目——私は愚痴だ。(丸山健二小説連載)

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私は愚痴だ。

県下一円に広まりつつある悪性の流感にやられて、すっかり弱気になってしまった年寄りがこぼす、愚痴だ。彼は、気丈でしっかり者の嫁が用足しに出掛けるのを見定めてから、私にしがみついてきた。私は彼が深く胸裏に秘めた気持ちを代弁して、こう呟いた。「ああ、こんなことならあの戦争で死んでいればよかった」と。ところが実際には、この男は戦争の惨禍をほとんど被っていなかったのだ。

それから彼は、まほろ町よりもはるかに鄙びた僻遠の地に赴任したときのことを思い出し、勝手のわからない土地で親切にしてくれた娘に惚れ、言い寄る機会を作るために長居をし過ぎて家中の者に嫌われ、出入りを差しとめられ、生きていても仕方がないと思い詰め、さりとて死ぬ気にもなれず、乞食姿に身を窶して国中を遍歴した、そんなことを思い出した。当時の彼は逃げ支度が素早く、滅私の精神とよく似た気構えでごく自然に生きることができ、黒白を弁じる必要もなく、目算が外れることもなく、幻滅とも無縁で、ときには偽悪家を気取ることもでき、行く先々でオオルリのさえずりを耳にしたものだった。私は、高枕で寝られるという以外何の取り柄もない日々がつづき過ぎたことを嘆いた。

「これだけ生きてもどうってことはないよなあ」と彼は言い、耳を澄まして、それだけでも充分ではないか、という誰かの慰めの言葉を待った。口笛によるオオルリの声が中断した。
(12・17・日)

丸山健二×ガジェット通信

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