『千日の瑠璃』400日目——私は徘徊だ。(丸山健二小説連載)
私は徘徊だ。
子どものいない夫婦にペットとして飼われているホルスタイン種の牛が、深夜に試みた徘徊だ。何不自由のない日々と、惜しげもなく注がれる慈愛に押し漬されそうになった牛は、月光に刺戟されて暴れた。体当たりで柵を壊し、どたどたと山道を駆け下り、湖に沿った淋しい道をとぼとぼと歩き、それから灯りがかたまっている町中へと入って行った。
私はこう言って牛を唆した。「この際だ、行きたいところへ行って、見たいものを見ろ」と。どこも寝静まっており、人間もクルマも通らず、私に気づいて吠えついてくる犬もいなかった。ただ、不思議な巡り合せを予感させる角を曲ると、向うからぐでんぐでんに酔っ払った男がやってきて、それとは知らずに牛の首ったまに抱きついた。そして相手が何者かわかると、乳を飲ませろの、背中に乗せろの、股肉を食わせろのと絡んだ。
牛はおとなしくしていた。やがて男は動物相手に説教を始め、牛なら牛らしくしていろ、と言い、牛が町をうろつくのは不自然だ、と言い、「おれもおれらしくするから」と言ってつけていた鬘を外し、「どうだ、禿げらしい禿げだろうが」と言って立ち去った。そのあと私は牛をあちこち引っ張り回したものの、結局満足させてはやれなかった。牛は情味のある夜景を眺め、湖畔の枯れ草を少し食み、波の音にしばし聞き惚れてから、ふたたび山の塒へ帰り、自ら柵のなかへ入って眠った。
(11・4 ・土)
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