絶体絶命から始まるスリラー〜フィン・ベル『死んだレモン』

絶体絶命から始まるスリラー〜フィン・ベル『死んだレモン』

 人生をやり直す決意をした男が殺されかける。

 フィン・ベル『死んだレモン』(創元推理文庫)はそんなスリラーだ。珍しや、ニュージーランド産のミステリーである。同国にゆかりの深い作家の名がついた、ナイオ・マーシュ賞新人賞も獲得したとのこと。絶望の淵に沈んだ人間が、もう一度生きることに積極的になってみようか、と思ったところで絶体絶命の窮地に追い込まれる。こんな皮肉なことはないだろう。どうしてそうなったのかという関心と、そこからどうやって脱出するのかという興味とが小説の牽引力となる。読みだすと本の半分くらいは一気にページを繰ってしまっているはずだ。

 作者と同じ名前のフィン・ベルが、海沿いの岩場で宙吊りになっている場面から物語は始まる。フィンは交通事故のため下半身が動かなくなって車椅子を使っている。その麻痺した足が巨石の間に挟まったおかげで転落せずに済んだのだ。しかし八メートル下の波打ち際まで落ちれば確実に命はない。そうこうしている間にも、彼を崖まで運んできた男の身内がフィンを捜してやって来るだろう。どうなるか、さてお立合い、というところで第一章は終わり、第二章に入る。

 そこからは時計の針が戻って五ヶ月前の話になる。フィン・ベルは何もかもを失くしてしまった男だ。すべて自分の弱さのせいである。交通事故を起こして重傷を負ったのは、飲酒運転が原因である。自分の内面と向き合うことを怖れて酒に逃げ、それに依存するようになった。妻は、そんな夫に我慢ができず、彼のもとを去った。一人ぼっちになったフィンは、ニュージーランド南島の最南端にある港町、リヴァトンにたどり着いていた。そこからさらに南にあるコテージが売りに出されているという。〈最果ての密漁小屋〉という不動産広告の売り文句に惹かれたフィンはコテージに引っ越し、銃を買った。

『死んだレモン』という気を惹く題名は、そんなフィン・ベルが死ぬことを考えていると見抜いたセラピスト、ベティ・クロウの言葉から採られている。Dead Lemons、すなわち死んだレモンという成句には人生の落伍者という意味があるのだ。「あなたは落伍者かしら、フィン?」とベティは問いかける。彼女とのセッションで交わされる会話が、実は物語の主部なのである。

 時にフィンを突き放しているようにさえ見えるベティとのやり取りを通して、彼は次第に避けていた内面を見つめるようになっていく。ただしフィンには、人生を再始動させる前にやっておかなければならないことがあった。〈最果ての密漁小屋〉には忌まわしい過去があったのである。その謎を解くことを、フィンは自分に課せられた新しい使命と考えるようになる。

 かつてコテージでは、コッターという一家が暮らしていた。二十六年前のある日、コッター家の一人娘・アリスが行方不明になったのである。六週間後に一部が発見された人骨は、DNA鑑定の結果彼女のものと断定される。その骨の状態は、アリスが残酷な仕打ちを受けたことを物語っていたのである。ここには書くことを憚られるような、おぞましい仕打ちを。

 新聞記事などで事件を調べるうちにフィンは、地元の人々としばしば悶着を起こしてきたゾイル家の三兄弟が、犯人として疑われながらもアリバイがあったために今も自由の身でいることを知る。〈最果ての密漁小屋〉とゾイル家は敷地を隔てて隣人の関係にあるのだが、なぜか兄弟たちは引っ越してきたばかりのフィンにも敵意を剥き出しにしてきていた。無言の圧力はやがて暴力へと姿を変える。

 しろうと探偵による捜査行の過去パートと、彼が陥った危機を描く現在パートとが並行して綴られていく。スリラーとしては正道の展開に見えるのだが、思わぬところに仕掛けがあって、真相が明らかになるまでは油断できないのである。作者と主人公が同じフィン・ベルという名前である理由は訳者あとがきで明かされているのだが、元からのニュージーランド人ではなく、南アフリカ共和国出身というプロフィールも共通しているらしい。作者のほうのフィン・ベルは法心理学の専門家で、生国南アフリカや移住したニュージーランドで受刑者のカウンセリングなどに当たっていた経験がある。この物語もそうした体験から生み出されたもののようで、読んでいるとやや言わずもがなの説明をしていると感じられる箇所が出てくる。専門家ゆえの書きすぎか、と思っていると実はそこに後段で出てくる展開のための仕込みが行われていたりするのである。なかなか手練れの書き手だ。

 主人公が親しくなるマオリ族の好漢タイ・ランギなど、脇役にも味がある作品だ。本書はフィン・ベルのデビュー作だが、作中に登場する元刑事のボブ・レス神父を主人公にした長篇Pancake Moneyが第二作として発表されている。これは『死んだレモン』の前日譚なのだという。ボブ・レス神父のモデルは『FBI心理分析官』の共著者であるロバート・K・レスラーだそうだから、そういうプロファイリングの物語なのだろうか。脇役でいちばんキャラクターが立っていると思ったのは、アフリカ西部のペナンからの移住組だというルーカス&ジョンのファソ兄弟だ。彼らは刑事なのだが、フィンに「ワナでサルを捕まえる秘訣」を延々と語る場面がある。ミステリーでそんな場面を読んだのは初めてかもしれないのでものすごく気になった。それ、本題と関係があるのか。いや、あるのだ。秘訣のその一はカボチャに関係している。カボチャかあ。

(杉江松恋)

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