機械論的な時間ループではなく、記憶と歴史の物語
これは、ひとりの女性の人生、第二次大戦を挟んだ激動の歴史、そして、なにより「記憶の物語」だ。外形的には時間ループSFとも言えるが、そう称されるおおよその小説が依拠している機械論的時間観とは一線を画す。
冒頭の一章が印象的だ。1930年11月、ドイツのカフェに入ってきた女が、ひとりの男を銃撃する。いささかの躊躇もなしに。撃つときに「フューラー」と呼びかけて。
女の名前はアーシュラ。
次の章は一転して、1910年2月11日。女の赤ん坊の誕生シーンだ。悲しいことに、この子は臍の緒が首に巻きついて死ぬ。
つづく章で、ふたたび1910年2月11日の、同じ場面が繰り返される。しかし、今度は、無事に生まれる。赤ん坊はアーシュラと名づけられる。彼女の家族はロンドン郊外に暮らす、典型的な中流階級だ。
アーシュラは大切に育てられるが、幼くして死を迎える。そして、また1910年2月11日の誕生から物語がはじまるのだ。それが何度となく繰り返される。彼女の死の要因は、疫病だったり事故だったり戦禍だったり、さまざまだ。死ぬ年齢も、だんだんに延びていく。
多くの時間ループ小説と大きく異なるのは、アーシュラには「時間を繰り返している」「人生をやり直している」という意識がないことだ。記憶は引きつがれない。
しかし、完全にリセットされているのでもない。ときおり既視感を覚える。そして、「気がかり」や「虫のしらせ」によって、危機を回避する。アーシュラ自身には知りようがないのだが、その危機とは前世で彼女の命を奪った要因だ。
作品の途中までは、人生1、人生2、人生3……と「やり直し」が順番につづいているように思えるのだが、中盤からは語られる年代が交錯していく。訳者の青木順子さんの「あとがき」の言葉を借りれば、「時空を往還する軽業的なプロット構成」「ひとつのエピソードに別なエピソードがいくつも重なり合い、アーシュラの現在地(つまり目次が示す年月日)が一瞬わからなくなるような叙述マジック」である。
かくして読者にもたらされるのは、時間ループというよりも、分岐した並行世界が合わせ鏡のようにつづいている印象だ。アーシュラの潜在意識も、並行世界にまたがって働いているといってよい。
最初に「記憶の物語」といったのは、そういうことだ。
アーシュラは、交錯する並行世界のなか、イギリスでもドイツでも空爆を体験する。
イギリスに住む世界線では、独身のキャリアウーマンとして自由な生活を送っている。
ドイツに住む世界線では、ナチス党員の法律家と結婚して子をもうけている。
本書は歴史小説としても一級だが、とくに第二次大戦中の描写においては、市井のひとびとの具体的な生活と実感を克明に再現している。
そうした大きく肌理細かい背景があればこそ、最初の章に記されたフューラー暗殺の謎が引きたつ。アーシュラはどのような経緯で、1930年の時点で、かような行為に至ったのか?
(牧眞司)
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