『千日の瑠璃』287日目——私は積乱雲だ。(丸山健二小説連載)

 

私は積乱雲だ。

今年初めてまほろ町の空をいっぱいに占め、少年世一を魅了してやまぬ積乱雲だ。私の上には何にでも咬みつく太陽がぎらぎらと輝き、私の下にはいつもと変らぬ各人各様の営みがある。昼間から一杯ひっかけて威勢をつける物乞い。心血を注いだ作品を焼き棄てる老画家。やくざ者の仕返しを恐れて泣き寝入りするパチンコ店の店主。町工場の経営に腐心する名ばかりの社長。煩悩を超克しようと座禅をつづける若い僧。巧みに詐術を弄して安物を高価に見せ掛ける訪問販売員。陶冶性が著しく欠如した教育の場へせっせと通う元気が取り柄の生徒たち。わが身の不遇を託ちながらも尚国粋主義を信奉する隻腕の男。夫が大切にしている花瓶を割ってしまい、慌てて似寄りの品を捜しに商店街へ走る従順な妻。反対派の議員に微温的な対策だと罵られ、予算の用途の明示を厳しく求められて冷や汗をかく町長。はるばる往訪した戦友を交えて会食をする矍鑠とした老人たち。新しい咬傷の手当てをしながら悪態をついている犬の訓練士。昨未明に起きたぼや騒ぎを詳しく調べる消防夫。拝み倒してきてもらった嫁の歓心を買おうと躍起になっている姑。喪神したようなうつろな眼をして歩く底気味のわるい狂女。この世を見極めることにかけては今や入神の域に達しつつある少年世一。私はかれらひとりひとりに魅入っている。そして私はかれらの至高至純の魂を吸って膨らみ、いつもの夏を構成してゆく。
(7・14・金)

丸山健二×ガジェット通信

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