『千日の瑠璃』281日目——私は足音だ。(丸山健二小説連載)

 

私は足音だ。

さながら勤め人のように疲労困憊して帰宅した少年世一、彼が階段を登って行くときの暗い足音だ。まほろ町へ遅れてやってきた流行性の風邪のために休んでいる世一の母は、湿った床のなかで己れの五十数年を抱きしめながら、私に耳をそばだてる。そして彼女は、私の孤独の深さを今更ながら思い知り、少なからず衝撃を受ける。同時に、わが子に見切りをつけて久しい自分に気づき、愕然となる。熱がいっぺんに二度も上昇する。咳の数が急に増える。

世一は階段の途中でうずくまり、呼吸を整える。そうしなければ部屋に辿り着けないほどくたびれ果てている。ゼンマイ仕掛けの置き物と化した世一には、オオルリの激励などもはや何の役にも立ちはしない。きょう、世一はいつもの三倍の距離をほっつき歩いた。しかし、わざわざ足をとめて見入るほどの事件には出くわさなかった。彼がぬかるみのなかで目撃したのは、収束された事態や、昼の光を浴びて死んだ夜の鳥や、至当な処置や、行為の正否を弁えながらも性邪曲である人々や、狂い咲いた菊の花、それくらいなものだった。

すべて雨のせいだ。雨が世一の一日をつまらないものにしてしまった。世一はまた階段を登って行く。オオルリのお節介なさえずりが一段と活発になる。丘を駆け下る水の音が更に強まって、世一の母の耳を塞ぐ。ついでに心をも塞ぐ。彼女は毛布に抱きつき、世一は鳥籠にしがみつく。そして私は消え失せる。
(7・8・土)

丸山健二×ガジェット通信

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