『千日の瑠璃』277日目——私は蛙だ。(丸山健二小説連載)
私は蛙だ。
幾日もかけて片丘を登り、とうとうめざす家に辿り着くことができた、雨の色の蛙だ。なぜそうしたかったのかについては、私自身にもよくわからない。湖畔での生活に不自由を感じていたわけではない。そこでは水にも餌にも異性にも事欠くことがなく、また、適度な刺戟を与えてくれる敵もうじゃうじゃいたのだ。そして私は、そんな日々に充分満足していたはずだった。嘘ではない。
ところがある晩、葦の葉にとまってひと息入れていた私は、雨に煙って屹立する丘と、そのてっぺんで灯りを点している一軒家に眼をとめたのだ。それをぼんやりと眺めているうちに、どういうわけか私のうちに不思議な力が湧き起こった。ただの両棲類として短い一生を終えたくない、そんな気持ちになった。そう思った私は、仲間に暇乞いもしないで、早速出発した。万全の注意を払って丘を登って行くときの充実、それはもう大したものだった。四股を踏ん張り、傲然と構える私にちょっかいを出せる蛇も鳥もいなかった。
丘を登り詰めた私は、次にその夏向きの家の壁をよじ登って行った。二階の部屋から洩れる灯りに集まっていた蛾を数匹平らげたあと、窓の向うで、夜にもかかわらず鳴いている籠の鳥を見物した。籠の傍らでは、生きることに殊のほか手間取りそうな少年が眠っていた。そのとき青い鳥は私に言った。今度は丘を下ることが目的になるだろう、と言った。
(7・4・火)
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