『千日の瑠璃』276日目——私はビタミン剤だ。(丸山健二小説連載)

 

私はビタミン剤だ。

ただ生きているだけで疲れてしまう男が、もう長年服用しているビタミン剤だ。カルシウムやマグネシウムまで入っている至れり尽くせりの私を毎朝一錠ずつ飲む男は、丘の坂道を登り降りする日々と、育て甲斐のない子どもが疲労の主因だと思いこんでいる。しかし、実際にはそんなことはない。おおよその見当をつけてさえ生きようとしない彼をこの歳になるまで支えてきたのは、足腰を知らず知らずのうちに鍛えてくれる急坂と、いつまでも結婚できない娘と、普通の子どもにもなれない頭痛の種の息子だった。

彼にとって私など寝しなに呑む酒や、起き抜けに飲む一杯の水ほどの価値もなく、ただ徒に小便を着色しているばかりだ。それでも彼は私の力を信じており、信じることでともかく勤めに出る意欲を得、家長としての立場を辛うじて保ち、脱け毛の数を一本か二本程度減らしている。

ところがきょう、彼は初めて私を疑った。飲むことは飲んだのだが、効き目はさっぱりで、むしろ出勤が億劫になった。更には平常通りの暮らしをつづけるのが厭になり、つまり変化を求めたくなった。だが、特にこれといってすることはなく、結局仮病を使って休むことしかできなかった。そして息子の気配にいたたまれなくなった彼は、私をもうひと粒掌にのせ、毒でも岬るようにして一気に飲み下し、それから雨のなかを勤めに出て行った。
(7・3・月)

丸山健二×ガジェット通信

  1. HOME
  2. エンタメ
  3. 『千日の瑠璃』276日目——私はビタミン剤だ。(丸山健二小説連載)
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。