『千日の瑠璃』274日目——私は雲だ。(丸山健二小説連載)
私は雲だ。
まほろ町立病院のベッドに横たわった患者たちが、それぞれ自分しか見ていないと思って見上げている、雲だ。私は薄く、且つ儚く、そして絶えずちぎれたりくっついたりを繰り返している。患者たちはなぜか、病状にさほど関係なく、年齢や性別や痛みの程度にも関係なく、皆一様に自足の境地に達している。むろん、なかには私から火葬場の煙を連想する者だっているし、また、私のことを安らかで永遠な来世を覆うベールに見立てる者もいないわけではない。
しかしそれでも尚、かれらに切実に迫る悲しみは見当たらないのだ。おそらく私がかれらのひとりひとりに、何物にも代えられない時の流れや、そこから派生する運命というやつを、ごく自然に、すんなりと、真夏の岩清水のように気持ちよく飲ませたのだろう。かれらは今、皆揃って長くなった日あしのことに思いを巡らせ、清遊した一夜を追懐している。かれらは今、俗間の信仰に頼ろうとはせず、もっとましな死処を得ようと焦ったりもしないで、私と共に天空を漂っている。
私とは相識の仲である少年世一が、病院の外壁を掌で触れながら通って行く。まもなく小さなつむじ風が生じ、羽音によく似た風音が各病室の窓を軽く叩いて回る。すると、どの患者も誰に言うともなしに「まだ死んではいない」と言う。その快活な声が集まって新たなつむじ風が起き、私のところまで届く。
(7・1・土)
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