『千日の瑠璃』271日目——私は嗅覚だ。(丸山健二小説連載)
私は嗅覚だ。
光を知らないおかげで闇も知らなくてすむ盲目の少女、そんな彼女の異常に発達した嗅覚だ。私は大抵の物なら正確に捉えることができる。たとえば、こっちへ向って吹いている湖風と、その切ない風と共にやってくる少年世一を捉える。もっと近づくと、世一の胸をいっぱいに轟かせている希望をも捉えることができる。そして、世一の満面を覆う晴れやかな微笑だって捉えられるのだ。
誰にわからなくても、私にはよくわかる。厄介な病に蝕まれた世一の肉体、それは決して人を欺かんがための姿ではない。また、この世を欺くためでも、世一自身を欺くための姿でもない。それこそがまさしく世一そのものにほかならない。どうしようもないように思えてどうにかまとまっている肉体と、そこに宿る純潔な精神、それが世一だ。余人はいざ知らず、私はそう確信している。
更に私は、世一の周辺にのべつ漂うおとなたちの言行の不一致を捉え、友情の疎隔を来した者たちの苛立ちを捉え、勝ちに乗じて相手をもっと手酷く痛めようとする浅ましい心根を捉え、再考の余地がまったくない結論を捉え、推測の域を出ない説の裏にあるものを捉え、権力と金力に凄まれて打って変る態度を捉え、同僚を讒する者の胸中を捉える。
あと十メートルほどに迫った世一に向って、盲目の少女は「カレーライス食べてきたでしょ」と言い、得意げに小鼻を動かすのだ。
(6・28・水)
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