『千日の瑠璃』260日目——私は快楽だ。(丸山健二小説連載)

 

私は快楽だ。

木造アパートの一室に煙草の煙と共に充満している、安手の、ほかにどうしようもない快楽だ。亭主を職場の女に奪われて久しいその女は、きょうもまた自分と同じくらい太った男を引っ張りこんでいる。そしてふたりは強引に私をやりとりし、無理矢理私を奪い合い、私にむしゃぶりついて、世路を踏み誤った今を忘れようとしている。しかし、追いかけても追いかけても、私を捉えることはできない。また、いくら躍起になって私に弁解したところで、所詮意味のないことなのだ。

ほどなくふたりは、へとへとになって離れる。女のうわずった声も、男の哮り立ったけものの精神も、そぼ降る雨に吸い取られてしまう。それでもふたりはまだ私に未練を残している。心置きなく語り合ったりしないふたりは、依然言葉を避けている。逢うたびに肥満してゆくこの男女は、私が去ったあとにくるものを恐れるあまり、大皿に盛られた優に五人前を超す量のぎらぎらした焼き飯を肴に、ビールをがぶ呑みする。だがいくら食べても、いくら呑んでも饑い感じは失せず、窓外に聞く雨声が徐々に私を恐怖に変えてゆく。

またしてもふたりは見るのも疎ましい互いの体をかき抱き、失態のつづきを演じ、私を巻きこみながら雨の底へと墜ちてゆく。やがて、傘もささないで小路を歩いて行く少年が吹く、寂し過ぎる口笛によって両者のあいだに間隙が生じ、私は苦痛へと変ってしまう。
(6・17・土)

丸山健二×ガジェット通信

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