『千日の瑠璃』254日目——私は笑声だ。(丸山健二小説連載)

 

私は笑声だ。

気立ての優しい盲目の少女の薔薇色の唇からほとばしる、屈託のない笑声だ。私のあまりの可憐さに、うたかた湖の砂浜で遊んでいた人々が一斉にこっちを振り返る。私は大小さまざまな形状の鼓膜を震わせて、かれらの心の蟠りを消し去る。そして多くの好ましい視線が少女に注がれ、やや遅れて少女が背負っている不幸に集まる。耐乏生活を送る者も、年甲斐もなく修羅を燃やす者も、知友を失ってまもない者も、長年連れ添った夫の顔を見忘れるほど惚けた者も、一様に相好を崩す。

私の原因を作ったのは、浜に打ち寄せるありふれた波だ。きょう少女は、初めて湖へ入ることを許された。波に両足をくすぐられた少女は、母親がいる方を振り返って笑い、水飛沫をあげていっしょに駆け回る白い犬に向って笑う。私は程よい風に乗ってはるか遠くまで散って行く。私は湖に臨む別荘で支離滅裂な独り言を呟いている狂女を沈黙させる。私を捉えた狂女の耳がけもののようにひくひくと動き、その眼はみるみる澄んでゆく。

それから私は、飯を横取りした猫を足蹴にしている物乞いの垢だらけの耳にも届く。同時に彼の振った足が空を切る。ついで私は、丘の家へと帰って行くしかない少年のしゃくり泣きをとめる。また、徳が高いと評判の老僧の胸のうちに忍びこんで、女を見初めたむかしむかしの思い出を甦らせる。あるいは、まほろ町全体を原寸大の模型に変えてしまう。
(6・11・日)

丸山健二×ガジェット通信

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