『千日の瑠璃』252日目——私は希望だ。(丸山健二小説連載)
私は希望だ。
ただせわしないというだけの日々を送っている世一の母が久方振りにつかんだ、ちっぽけな希望だ。私にきっかけを与えてくれたのは、彼女の職場の同僚だった。私とはとうのむかしに縁を切っている世一の母に、胸にオオルリのバッジをつけた若い女が新聞の切り抜き記事を見せたのだ。世一の母はそれを何度も何度も読み返した。奇跡の泉の水をひと口飲んだだけで視力を取り戻した盲人、やはりその水の効果でふたたび歩けるようになったポリオの娘……「不思議なことってまだまだあるんですねえ」と同僚は言った。
世一の母は言った。「だって、これは遠い国の話じゃあない」と。「遠いといっても月や火星のことではないんですよ」と同僚は言い、「行こうと思えば行けるところにあるんですよ」と言った。とりあえず私は切り抜きといっしょに財布のなかへ大切にしまいこまれた。そして意外にも、私は夕方まで棄てられなかった。それというのも同僚が、「おばさんの家には本物の青い鳥がいるんですもの」と言い、「いいことがあって当たり前ですよね」と言い、「とにかく幸先のいい話だと思いませんか」などと言ったからだ。
世一の母は勤めを終えて丘を登って行った。生きた心地がしなかったあの日々が未だに終っていないことを自覚しながら、私にしがみつき、息を切らして坂道を歩いた。だが、家に着く頃には、私は汗と共に流されていた。
(6・9・金)
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