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『千日の瑠璃』251日目——私は葡萄酒だ。(丸山健二小説連載)

 
私は葡萄酒だ。

湖畔の別荘地で隠居生活を送る元大学教授がボートの上で独り楽しむ、赤の葡萄酒だ。彼はロープをたぐって場を水中から引き揚げ、ほどよく冷えた私を専用のグラスに注いで、ちびちびと呑み始める。ボートは波と風のまにまに漂っている。彼の余生もまた然りだ。博聞で通っている彼のような者にとって、私はただの酒ではない。たとえば、私のなかにアルコールのほかに知性やら文化やらまでが溶けこんでいる、とそう彼は信じ切っている。つまり、日本酒にはそうしたものが一切含まれていないときめつけているのだ。

その偏見と悪癖と憧憶とが彼を幸福にし、また、不幸にもさせている。しかし、当人はまだそのことに気づいていない。いや、気づく瞬間はたびたびあっても、それを認めてしまうと己れの一生がほとんど無意味なものになるように思えて、即座に否定する。酔いが少し回ってくると、彼は私に向ってこう呟く。最後の一滴を呑み終えたら死んでもかまわない、と半ば本気で言い、仰向けにゆっくりと倒れて死んだ真似をする。だが、グラスを持つ手と舌だけは生かしておく。

春の運動会の沸き返るような騒ぎが届く。遊覧船は嬌声と共にのろのろと走っている。松林のなかでは早くも蝉が鳴き頻り、丘の上からはオオルリのさえずりと、その声を真似た口笛が風に運ばれてくる。それらを溶けこませた私だが、私を呑む者は気づいていない。
(6・8・木)

丸山健二×ガジェット通信

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