『千日の瑠璃』247日目——私は春月だ。(丸山健二小説連載)
私は春月だ。
まほろ町一帯に柔らかくて暖かそうな色の光を遍く降り注ぐ、知ったかぶりの春月だ。私は今、草野球の試合に僅少差で勝ち、昂然たる面持ちで帰って行く男たちの背中を照らしている。かれらのからからに渇いた喉から飛び出す高笑いは、うたかた湖を渡り、うつせみ山を越えて、私のところまで届く。
とりわけ九回の裏に逆転の二塁打を放った世一の父の声には、いつになく張りがある。このところ愁色が板につき始めていた彼の顔だが、きょうは見違えるほど晴れやかで、丘のてっぺんにある頭痛の種の家にふと眼がとまっても、決して崩れることはない。これはたぶん、私しか知らないことだろう。まほろ町にはきょう一日厭なことがひとつもなかったのだ。死者も怪我人も出ず、喧嘩も口論もなく、むき出しの嫉妬も悪感情もなく、悪辣な手口も業腹な仕打ちもなかった。また、恋人に裏切られて涙に声を曇らせた者も、行商人に法外な値を吹っかけられた者、仔細があって一時身を隠さなくてはならない者も、無神経なひと言で頑に心を閉ざしてしまった者も、余儀なく義絶した者もいなかった。あしたはともかく、きょうはそうだった。
まほろ町に住む人々は皆、休日のきょう一日、分に応じた暮らしをし、身知らずな考えを持たず、それをよしとして、よく笑った。そんなかれらは今、私を仰いで天命を優しく受けとめ、愚昧に生きる楽しみに気がつく。
(6・4・日)
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