『千日の瑠璃』245日目——私は抱擁だ。(丸山健二小説連載)
私は抱擁だ。
白昼、町立図書館の片隅で交される、もう若くはない男と女のひどくぎごちない抱擁だ。三十歳にもなって初めて異性の体にむしゃぶりついた女と、妻子に逃げられてから一年ものあいだ自分で作ったストーブにしか両腕を回したことがない男は、それぞれ私を通して運命を成り行きに任せた。鉄材を扱う仕事で硬くなった男の腕は、予想されたほどの堅物ではなかった女の背をかき抱き、これまで活字のなかでしかそうした行為を経験していない女は、半ば気を失いかけていた。
窓の向うで輝く湖のはるか沖では、白鳥をかたどった遊覧船が白い航跡を残して走っていた。また、クルマの往来が激しい街道では、軽い接触事故を起こしたワゴン車のフロントのガラスの細片が、きらきらと飛び散っているところだった。そしてここから一番近いバス停では、身重な体で旅を楽しむどこかの女が、厄介な疾病にかかってまともに口もきけない少年をつかまえ、道をたずねていた。
私は尚もつづいた。女は我とはなしに出てきた涙に酔い、男は自責の念に駆られながらもますます腕に力をこめた。だがふたりの唇が重ねられることはなく、ふしくれだった指と乳房が出会うこともなかった。やがて私は次第に純化されてゆき、下心の類いが割りこめる余地はなくなり、女以上に男のほうも私にのめりこみ、理想の女に邂逅したのかもしれないという思いがさかんに男の胸を過った。
(6・2・金)
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