『千日の瑠璃』243日目——私は悪意だ。(丸山健二小説連載)
私は悪意だ。
駆落ちしてまほろ町へ移り住んだ若い男女のあいだに生じる、極めて深刻な悪意だ。ほとんど同時に私に気づいた両者の顔は、みるみるうちに険阻なものに変ってゆく。互いに何か含むところがありそうなやりとりをしばらくつづけたあと、男は天を仰いで長息し、女は崩れかけている壁に寄りかかって、軒の点滴に耳を傾ける。とうとう地雨になった。
ふたりが胸のところにつけているバッジの青い鳥も、もはや私をついばんで呑みこんでしまう力を失っている。そしてふたりは遂に、言ってはならぬ言葉を口にする。まず女が、「お母さんのもとへ帰ったら」と言う。すると男は、「婚約者がいたなんて嘘だろうが」と言う。私としてはその一言ずつで万事休すだと思った。ところがなぜか、双方共に雨のなかへ飛び出して行く気配を見せず、問題の在り処についてそれ以上探ろうとはしない。しかもそのあとふたりは、夜中にこっそりとどこかから運んできたテレビを観ながら、私を除け者にして温かい晩飯を食べ始める。
ふたりは凄じい食欲でインスタント食品ばかり次から次へと貪り食い、腹いっぱいになると、ふたたび私を挟んで対峙する。しかしもう何も言わず、その眼は各地の花便りを告げるテレビの画面に釘づけになっている。そんなふたりをしっかり繋ぎとめているのがほかならぬこの私だとわかったのは、雨に代って月の光が降り注いできた、官能の夜更けだ。
(5・31・水)
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