『千日の瑠璃』234日目——私は小魚だ。(丸山健二小説連載)

 

私は小魚だ。

うたかた湖の純白の浜に水草の切れっ端といっしょに打ち上げられた、満身創痍の小魚だ。荒い砂地に幾度となく叩きつけられて息も絶え絶えになり、観念しかけたとき、どこかの物好きが私を拾いあげた。生温かく、絶え間なく小刻みに震える人間の手によって、私は水から大気へと移された。おそらく、私たちはほとんど同時に、憐憫の情というやつを催したのではないだろうか。もしかすると不用な人間かもしれぬ醜い容貌の少年の両眼と、私の片方の眼がぴったり合ったとき、私はたしかにそれを感じた。

少年は右手の運命線と生命線のあいだに私をのせて、温良な笑みを湛えた双眸をそっと近づけてきた。そしてしばらくすると彼は、助かる見込みが私にないことを悟ったようだ。少年は私を優しくつまみ、眼では何も感知することができない、しかし開けっ広げな性格の少女の柔らかい掌にのせた。すると付き添っていた少女の母親が、「ああ、それがお魚よ」と言った。少女は人差し指を、ついで鼻を、しまいには耳まで使って私を知ろうとした。そんな彼女のために、私は最後の力を振り絞って尾鰭をぴちっと動かした。「あっ」と少女は叫んだ。顔いっぱいに幸福が広がった。そのとき少年は、事切れることを素早く察知して私を湖へ投げた。宙を飛んで行く途中で、母親が少年に礼を言う「ありがとね」という声が聞えた。私は今も尚生きている。
(5・22・月)

丸山健二×ガジェット通信

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