『千日の瑠璃』238日目——私は矢だ。(丸山健二小説連載)

 

私は矢だ。

およそ人間技とは到底思えぬ力で天に向ってひょうと放たれ、神の領域へ果敢に突進する、一本の矢だ。決して飾りではない本物の矢じりには、猛毒に匹敵する得体の知れない怒りがたっぷりと塗られ、矢羽には悲しみの青い羽が使われている。私は生命を生命たらしめる大気を切り裂き、万物に恵みとなるであろう雨雲を貫く。もはや、私を射た神宮の姿はむろん、あまびこ神社の檜皮葺きの屋根も見えず、烏滸の沙汰だという声も聞えない。地上の音も一切ここまでは届かない。

陣痛が始まった女の言い掛かりをつけるような響きの声、臨終を告げる経験の浅い医師の中途半端な声、難事業を為し遂げるために最後の断を下す零細企業の経営者の胴間声、どの声もすでに聞えない。また、創見に富んだ論文を一気呵成に書きあげても発表の場がない、元大学教授のため息も、むかしこの界隈は蛍が乱舞する美田だったと孫に話す、老いた農夫のしゃがれ声も、思わぬ怪我で欠場を余儀なくされ、実家へ帰ってふてくされているマラソン選手の怒声も、遠のいてしまう。

しかし、そこまでだ。まもなく私は何者かのごつい手に払い落とされ、ふたたび重力に捕まり、合点がゆかぬことだらけのまほろ町へと引き戻され、立ち小便をしている病気の少年の、おそらく一生使えないであろう性器のすれすれのところを掠め、腹立たしい惑星の面に突き刺さって、ぶるぶるっと震える。
(5・26・金)

丸山健二×ガジェット通信

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