『千日の瑠璃』236日目——私は盗心だ。(丸山健二小説連載)
私は盗心だ。
郷里のまほろ町へ舞い戻って、土蔵を塒にしている若者が、空腹のあまり起こした盗心だ。治水工事のなかでわざと一番きつい仕事を選んだ彼は、現場監督がいなくなるとすぐにスコップを投げ出し、穴の底から這いあがって、涼しい風が吹き渡るうたかた湖畔の松林のなかへと入って行った。そこでは、余人は知らず自分だけは老醜を晒していないと思いこんでいる人々が集まって、ゲートポールに興じていた。そして、そこから少し離れたところにあるベンチには、かれらのために町が用意した弁当が山と積まれていた。
私は若者を煽った。あれだけあればひとつやふたつなくなったところでどうということはあるまい、と言い、また、遊んでいる年寄りよりも働いている若い者こそ食べなくてはいけないのだ、と言った。私に押し切られた彼は、弁当をひとつつかむと大急ぎで松林を飛び出し、午前中いっぱいかけて掘った深い穴のなかへ飛びこんだ。だが、彼はそれを食べようとしなかった。見ただけでげんなりしてしまった。
若者は私の口車に乗ってしまった己れを恥じた。だからといって弁当を元のところへ返す勇気はなく、ちょうどそのとき穴の上から覗きこんだ、如何なる罪も許されそうな少年に与えた。「向うへ行って食え!」と怒鳴って青い少年を追い払ってから、彼は私をねじ伏せるための《罪と罰》を、即興で踊った。
(5・24・水)
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