『千日の瑠璃』229日目——私は縦笛だ。(丸山健二小説連載)

 

私は縦笛だ。

習いたての唱歌を、下校中の小学生が出っ歯の口で上手に吹き鳴らす縦笛だ。そうやって歩くことを学校では固く禁じていたにもかかわらず、彼はそんなことなどすっかり忘れてしまって、私に没頭している。すぐ脇をエンジン付きの凶器が自爆の速度でびゅんびゅん突っ走っていることも、また、自身がときおり歩道からはみ出してしまうことも、彼はまるで意に介さない。けたたましく鳴らされる警笛も、「死にてえのか、このくそがきは!」という運転手の怒声も聞えていない。

小学生は私を吹きつづける。私を通して幾度も幾度も繰り返されるうら悲しい旋律は、生涯忘れ得ぬ記憶として、まだ他人の思想にも他人の哲学にもほとんど汚染されていない真っ新な脳に、深々と刻まれてゆく。それは、この先ずっと彼を救うことになるかもしれない調べだ。塵芥のような存在になりかけるたびに胸のうちに甦って、特効薬以上の働きをするに違いない曲だ。

彼がおとなになる前に私を棄てても、私の音までは棄てられないだろう。私の音は旅の路次に郷里へ立ち寄ることを思いつかせ、窮地に追いこまれた際に血路を開かせ、知人の家に止宿することが何よりの恥であると気づかせ、富力を頼む人種に阿ることを戒めるだろう。だが、クルマというクルマに急ブレーキを掛けさせながら、平然と街道を横切ってくる青尽くめの少年の口笛には到底適わない。
(5・17・水)

丸山健二×ガジェット通信

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